2021.06.15
「プライベートを犠牲にしても仕事を頑張ることが当たり前」「子どもが生まれたら仕事を続けるのは難しい」――。時代の流れとともに、そうした考え方が古い価値観になろうとしていますが、特に多忙を極める医療の現場では、まだ課題が多いのかもしれません。
今回は、公衆衛生学分野をけん引する研究者として活躍しながら、三男一女を育て上げた母親としての顔も持つ玉腰暁子先生に、社会医学の醍醐味や、仕事と子育てに対する考え方を伺いました。
あまり大きな声では言えませんが、「どちらかというと消去法で決めた」というのが当時の正直な記憶です。大学時代、私は医学生の彼(現在の夫)とお付き合いしていました。学生生活も後半に差しかかったころに「2人とも臨床医になったら(忙しすぎて)生活が回らないんじゃないか?」という話になりました。もともと「医師といえば臨床」というイメージを強く持っていましたが、なぜかその時は「そうだね」とあっさりと自分が臨床以外の道に進む判断をしたのです。
当時の名古屋大学では3年と6年で社会医学の実習があり、そこで受講した予防医学教室の授業が、すごく面白かったんです。学生たちで内容を考え、妊婦さんを対象にアンケート調査をしました(今だと、倫理審査を受けなくてはということになって、実施が難しい実習かもしれません)。自分たちが抱いた疑問を、調査によってデータ化し、背後にある普遍的な真理を探って見せていける点に興味を持ちました。「消去法」とは言いましたが、この時の経験が進む道の選択に大きな影響を与えたのは事実だと思います。
今の仕組みとは違いますが、当時も名古屋大学には研修の制度はあって、私も臨床の現場を経験しました。患者さんのさまざまな訴えに耳を傾け、病気に対処していく臨床の仕事にもちろんやりがいを感じました。でも予防医学、公衆衛生の仕事をし始めてから、自分が小さなミス――コンピューターに入力する数字を間違えたり、コマンドを書き間違えたり――をしがちだ、ということに気づいて、「私がミスなく、患者さんのために貢献できるのか。臨床は向いていないのかも……」という思いも抱きました。日々、繰り返していれば一定のレベルには達したと思いますが、それ以上に、自分で集めたデータに立脚して、伝えたいことを主張したり、工夫を凝らして道筋を作ったりする公衆衛生の研究の方こそ、私が本当に「生きがいを感じられる仕事」じゃないか、と思ったんです。

前提として、私は医学部在学中、「アカデミアに残りたい」「行政に入って政策に携わりたい」といった具体的な将来像のイメージを持っていませんでしたが。今振り返ってみても、その時々のめぐり合わせに運命を感じ、その折々の出会いから進路を選び、キャリアを築いてきたように思います。
現在は研究代表者として関わり続けているJACC Studyは、多くのめぐり合わせの運命の中でも特別大きなものですね。これは名古屋大学の青木國雄教授(当時)が中心となって始められた大規模なコホート研究です。日本人の生活習慣が、がんとどのように関連しているのか明らかにすることを目的として、1988年に開始し、約12万人の市民と多くの医療機関や研究機関の協力を得て行われました。
大学院生の時、事務局の一員として参加させてもらいました。全国各地から集まった熱意ある研究者が、貴重なデータを収集、分析していく現場に居合わせることができただけでも、私にとって大きな経験でした。それまで日本になかった、影響力のある研究ですから。当初はこれがすごい研究だとは分からなかったのですが(笑い)。事務局として参加して、青木先生のもとにおられた佐々木隆一郎先生(当時、名古屋大助教授)のお手伝いから始めましたが、岐阜や北海道の町に入って健康診断のデータを集めたり、住民や行政の担当者と話をしたりしながら、研究者として現場経験を積むこともできました。
かつての日本では、予防医学や疫学研究は未成熟な分野とみなされることが多く、なかなか他分野から認めてもらえない雰囲気があったそうです。しかし、JACC Studyを機に、そうした認識が少しずつ変わっていったように思います。新たな時代の流れを築いた仕事に携われたことと、そこでできた同年代も含めた先生たちとのつながりは、とても大きな財産となりました。
※日本人の生活習慣とがんとの関連を明らかにする研究(The Japan Collaborative Cohort Study for Evaluation of Cancer Risk sponsored by the Ministry of Education, Culture, Sport, Science and Technology of Japan.)
自分が疑問に思ったことや、世の中の疑問に対する「答え」を、客観的なデータとして示せることです。良質なデータを入手し、それをどう読むと何が分かるか考え抜き、真実に迫っていく過程に大きな魅力があると思います。あくまでも「人」を対象とした研究であり、協力してくださる方々がいないと成り立たないという点は、基礎研究とは違うところです。
そうした意味では、対人コミュニケーションが苦手だと、当分野は向かないかもしれません。「臨床ではコミュニケーション能力が大切だ」とよく言われますが、社会医学領域の研究者であっても同様です。また、社会医学は人の健康や幸福について、社会生活や環境を関連させて考える学問です。そのため、人間の生き様や社会のあり方に興味がある人には向いているのではないでしょうか。私を含め、大学で社会医学をやっている人間は、研究を「仕事」だと思っていないような気がします。心の底から「面白い」と感じ、向き合っています。
これまで私は、疾患に発展するかもしれない生活習慣について調べ、警鐘を鳴らすような仕事をしてきました。しかし、残念ながら、なかなか世の中は変わりません。どれだけ頑張って研究成果を発表しても、一般の人には「ああ、そうですか」としか思われないケースが少なくないです。
ただ、よく考えてみれば、それは当たり前のことですよね。つらさや痛みを抱える患者さんが訪れる臨床では、医師のアドバイスも素直に聞き入れてもらえると思います。対照的に、特に不自由を感じず普通に暮らしている人々に対して「将来のことを考えて〇〇しましょう!」と呼びかけても、行動を改めてもらうことは難しい。そのため、情報発信の方法を工夫することが必要だと考えています。ただリスクを提示するだけでなく、人々の行動変容につながる方策を検討し、発信を行うことが今後の目標です。

出産や育児と向き合ったときに、自分の思うままにキャリアを築いていくことが難しいケースもあるかもしれません。置かれた立場によっていろいろと違うと思うので一概には言えませんが、夫や子供のためにキャリアの全てを犠牲にするのはもったいないと思います。もちろん、自分の体が弱かったり、家族の介護があったりとさまざまな事情から、続けられないということもあるとは思います。ただ、たくさん努力して、医師になったからには、できるかぎり仕事を続けるという道を諦めないでほしいと考えています。
医学部に進学する学生は、やりたいと思ったことを自分の力で実現してきた人が多いので、大概のことは頑張れば何でもひとりでできると思っているかもしれません。でも、子どもが生まれた途端、「想定外のことに振り回され、どうにもならない」という体験が続きます。そうしたときに、意地を張って無理をするのではなく、人に頼ることが必要です。仮に、手助けしてくれた人に恩返しすることがかなわなかったとしても、次の世代に返していければ、それでいいのではないでしょうか。そういう考え方を持って、周囲への感謝の気持ちを忘れずに、人に頼ることを恐れないでほしいと思います。
もちろん、社会の仕組みを変えなくてはいけない部分もあります。医療の現場では、1年365日24時間、誰かが患者さんを診察できなくてはいけません。しかし、業務をうまく分担する環境が整い、家庭に時間を配分できるようになれば、子どもを持つという選択肢を安心して選べるでしょう。女性はもちろん、男性も含めて、望むキャリアを築きながら子どもを育てられる社会になるよう心から願っています。
私は三男一女を育てましたが、自分の人生にとって素晴らしい体験でした。だから、出産や育児を望む人には、ぜひ経験してほしい。「人の助けを借りればできるよ」とみなさんに伝えたいです。
私の研究室では、内科系や救急などで臨床を経てから、社会医学を学びたいと門戸をたたく医師が少なくありません。初期研修で臨床の現場を経験すれば、まずは臨床医を極めたいと考える医師が多くなるのは当然のことです。しかし、経験を積んでいくと、「自分が担当している患者さんしか治せない」「受診されたときには症状が進行していて、今からでは完治を目指せない」といった壁にぶつかる人もいます。そうしたときに、人々の疾病予防や健康の維持に力を注いでいく社会医学の存在を思い出してほしいです。そして、社会医学系専門医制度を通して、当分野の「裾野」が広がり、いずれは大きな「山」ができることを期待しています。

名古屋大学医学部を卒業後、名古屋大学大学院医学系研究科を満了。同研究科准教授、国立長寿医療センター(現・国立長寿医療研究センター)治験管理室長、愛知医科大学医学部(特任)教授を経て、2012年4月より北海道大学大学院医学研究院・医学院社会医学分野公衆衛生学教室で教授を務める。日本産業衛生学会、日本癌学会、日本衛生学会、日本公衆衛生学会、日本疫学会に所属。社会医学系専門医・指導医。