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2021.12.03

【第11回】世界中の仲間と手を取り合い、国際保健の課題に立ち向かう

WHO 事務局長補
山本 尚子先生

全人類の健康水準の引き上げを目指すことを目的に掲げ、1948年に設立されたWHO(世界保健機関)。現在も194の国と地域が加盟し、実質的に世界の国際保健をリードする存在です。新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックの中、その感染対策の手腕には依然、全世界が注目しています。地球レベルの保健医療政策の“ど真ん中”に位置するWHO、その中枢で活躍する日本人医師がいます。2017年、日本人女性として初めて「事務局長補」に就任し、スイス・ジュネーブの本部でユニバーサル・ヘルス・カバレッジ/ヘルシア・ポピュレーションズ領域を担当する山本尚子先生に話を伺いました。

当事者の声なき声を拾い、社会を変える挑戦

医師を目指し、社会医学領域に興味を持ったきっかけを教えてください。

幼いころから「社会に役立つような仕事をしたい」と考えていた記憶があります。大学教授の父親と専業主婦の母親の下で、のびのびと育ちました。高度経済成長期まっただ中の昭和の時代でしたが、「女の子だから」と制限されることなく、子どもの学びを応援してもらったと感じています。もちろん、当時は自分のキャリアが国際的な仕事につながっているとは、思いもよりませんでしたが、父親の海外の知人が家を訪ねてくることも多く、振り返ってみれば、子ども時代からさまざまな国の人たちと接点がありました。

大学進学時も「社会貢献をするなら、医師だろうな」と思って医学部を選び、6年生の最後の最後まで、直接的に「人助け」ができる臨床をやるつもりでした。しかし、ある教授から「視点を変えて、公衆衛生の観点から、人の健康にかかわってみてはどう」とアドバイスされたことが転機になりました。それまで、公衆衛生の講義に興味津々というわけでもなかったですし、「そういう仕事もあるのか」くらいの感覚だったのですが、厚生省(現厚生労働省)の医系技官の面接を受けにいったのです。ですから、この領域に足を踏み入れたことに、大層な理由とか高いモチベーションがあったわけではありません。当時はほとんどの医学生が医局に入り、大学病院からキャリアをスタートさせていました。公衆衛生の仕事は医療関係者以外の多様な背景を持った人たちに囲まれて働くので、同級生とは異なる環境でのスタートでしたが、それが私にはとてもマッチしていたと思います。

だからといって、臨床と全く関係がなかったということはなく、最初の配属先だった横浜市で1年間の臨床研修を経験させてもらいました。横浜市の保健所に勤務する医師は予防接種や結核検診などを担っているので、3カ月ごとに各科を回るスーパーローテーションで内科や小児科、救急医療の基本を学ぶ研修制度があり、厚生省から出向していた私にも機会を与えてくれたのです。その後、短い期間でしたが、乳幼児健康診査や成人病検診などの臨床的な対人サービス業務も担当し、基礎自治体の最前線で公衆衛生を学びました。

医療機関で患者さんを「迎える」臨床の仕事に対して、行政での公衆衛生の仕事はこちらから動いて地域へ「入っていく」イメージです。主体性を持って人とかかわっていける「現場」の仕事に魅力を感じました。

その後も、さまざまな自治体や国の機関で活躍されました。ターニングポイントと呼べる仕事は何ですか。

横浜市から環境庁(現環境省)に異動し、自動車公害課に配属されたときのことです。当時はスパイクタイヤの粉じん公害が社会問題になっていて、使用禁止を呼びかける市民運動も活発でした。そこで、スパイクタイヤを禁止する法案の策定に携わり、立場や意見が大きく異なる企業や省庁の調整役を担いました。市民団体と協力して法案の成立に至り、少しでも社会を動かせたことは、キャリアを方向付けるような成功体験でした。当時の環境庁は各省から応援で派遣された人員で構成されているような小さな組織で、それぞれが役割を限定せず縦横無尽かつ、一体感を持って働けたことも印象的です。

※金属の鋲が付いたスパイクタイヤの使用により路面のアスファルトが削られ、その粉じんによる大気汚染や呼吸器疾患の発生が公害問題となっていた。そこで「スパイクタイヤ粉じんの発生の防止に関する法律」が制定され、1990年に施行された。

写真:真剣な表情で話す山本尚子先生

その後、米国留学を経て、厚生省のエイズ結核感染症課長補佐に就任しました。HIVが発見されて間もない当時、患者への差別や偏見はすさまじいものでした。そうした状況の中で、国内外の専門家やNGO、患者さんやその家族の方と共に、課題解決に当たりました。当事者の声なき声を拾うことは簡単ではありませんが、常にチャレンジしながら一緒に行動を起こすことが大切なのだという、このときの学びは今でも生きています。こうして出会った仲間の中には、現在ジュネーブで一緒に働いている人もいます。人と人、どこでご縁がつながるか分かりませんね。だからこそその時々の出会いは大切にしなければ、と思いますし、どこにいても自分の仕事が「世界中とつながっている」という感覚をいつも持っています。

UHCの観点から「コロナ後」をより良い世界に

現在、山本先生がWHOで担っている役割について教えてください。

2017年10月から事務局長補として、ユニバーサル・ヘルス・カバレッジ(Universal Health Coverage)/ヘルシア・ポピュレーションズ(Healthier Populations)を担当しています。UHCとは「すべての人が、適切な健康増進、予防、治療、機能回復に関するサービスを、支払い可能な費用で受けられる」状態を意味し、国連が30年までに達成を目指す「持続可能な開発目標(SDGs)」の一つ「SDG 3: すべての人に健康と福祉を」ともかかわりの深いテーマです。私の担当している分野はUHCの中でも健康増進や、予防に関係する業務です。安全な水の確保、大気汚染の防止、栄養面や食品安全の改善、タバコやアルコールの制限、健康教育、高齢化問題、さらには暴力や虐待の防止など――。とにかく幅広く、人々の健康増進と健康格差の是正に取り組んでいます。

17年5月に、エチオピア出身のテドロス・アダノムが選挙で事務局長に選ばれました。彼は母国で保健大臣、外務大臣などを務めた政治家で、アフリカ出身者として初、そして医師ではない人物として初のWHO事務局長です。WHOでは事務局長が変わると組織が変わることが多く、特にテドロスは人種、性別など多様性を重視した人事、組織再編を行いました。まず事務局長クラスがほぼ総入れ替えとなり、私にも声がかかりました。結果、事務局長補の7割が女性になりました。

18~19年には、新しい中期目標を策定し、国レベルにインパクトを与えられる機関となるべく、大幅な組織改革を行いました。部を統廃合する仕事は、職員の身分や将来のキャリアにかかわることですから、正直大変でした。やっと新たな組織として本格的に始動した矢先、COVID-19のパンデミックが起こりました。世界的な非常事態ですが、貧困層が最も大きなダメージを受けていることは間違いなく、国家間及び各国国内における健康格差の深刻さと、それを是正する有効な政策としてUHCの重要性を再認識しました。また、ヘルス分野のみならず環境や就労、教育など社会の様々な分野への取り組みも必要不可欠です。

例えば、「感染予防に手洗いを」と呼びかけても、そもそも清潔な水が確保できない地域では手の打ちようがありません。COVID-19対策で休校になったことで給食がなくなり、低栄養に陥る子どもたち。あるいは、予防接種や、下痢やマラリアの治療など基本的な保健医療サービスがCOVID-19の対応で中断された結果、命を落とす人々。コロナは社会が抱えている脆弱さをあぶりだしました。「コロナ後の世界をどのように変えていけるのか」はWHOにとって大きな課題であり、次世代を担う若い医師にもぜひ考え、ともに行動してもらいたいテーマです。

日本の行政と国際機関の双方で経験を積む中で、ギャップを感じた点はありますか。

最も大きな違いを感じたのは、キャリアパスについての考え方です。日本の官僚や医師は組織から指示され、それに従う人事異動が中心で、年齢や経験を積むに従って昇進・昇給していきます。ところが欧米の価値観を基にしている国際機関では、自らチャレンジしてキャリアアップしない限り、何年たっても同じポストと給料のままです。下手をすれば解雇されてしまいます。何事にも果敢に挑戦する風土があり、アグレッシブにキャリアを築いていく意識がとても高いと思います。また、WHOでは個人の専門性を重視・尊重する傾向があります。例えば、作成したガイドラインに担当者の名前が明記されていることも、その表れですね。論文に著者の名前を記すことに近く、WHOは大学に似た組織だとも感じています。

WHOに入職した当初、チームづくりのために行われた合宿が記憶に強く残っています。3~4日間ほどの日程で、「愛」「公平性」「誠実さ」「家族」といったテーマで意見を述べ合い、それぞれの信条を明確にしました。大人が真剣な顔をして「僕にとっての愛はね――」と語り合っている様子には思わず笑ってしまいそうでしたが、互いの価値観について理解を深めることに業務時間を割くというのは、日本の職場にはない文化でユニークな経験でした。

写真:笑顔の山本尚子先生

一方で、日本とWHOの職場環境や文化には、似ている部分も多いと思います。例えば、会議で意見を通すための根回し、職員に対する評価の手法、パフォーマンスを高めるためのチームマネジメントなどは日本の組織とよく似ており、ギャップを感じることなく馴染むことができました。バックグラウンドが異なる人ばかりの国際機関で働くのは大変そうと感じるかもしれませんが、多少のスタイルの違いはあっても、組織づくりの基本的な部分は変わらないようです。

「医療の専門家ではない人々」と協働する魅力

国際機関における日本の医療従事者の存在感について、どのように感じていますか。

国際保健に対する貢献度を考慮すると、日本はスタッフ数が非常に少ない国の一つだと思います。現在、WHO本部の職員数は約2500人です。そのうち日本人は25人で1%のみ。内訳は事務局長補が私1人、部長クラスはゼロ。課長クラスが4人、あとは一般職員で、その中には厚労省からの派遣やインターンシップのスタッフが含まれています。

WHOの仕事の中心は「保健分野の国際基準を作る」ことです。現状、その主導権を欧米に握られていて、少し残念に感じます。医師はもちろんのこと、保健師や薬剤師、リハビリテーション職など保健医療分野の専門家、さらには経済、法律、国際政治やコミュニケーション領域など、さまざまなスペシャリストの日本人たちに活躍してほしいと願っています。「語学力が心配」という声をよく聞きますが、流暢に話す必要は決してありません。共通理解を深めるために、大切なことを伝える力があれば十分です。

さらに、国際機関での経験を持ち帰り、日本の医療に生かすことができたら理想的です。国内の医療現場では、数々の社会問題が立ちはだかっていると思います。例えば、在宅医療を担う医師の目には、高齢化、児童虐待、DV、栄養状態の悪化、就労形態による貧富の差などの課題が映るはずです。それぞれ複雑な背景がありますが、データに基づきエビデンスを積み上げること、そしてグローバルな視点を持つことで糸口をつかめるケースが少なくありません。WHOでは、「先進国から途上国が学ぶ」という一方通行の知見共有ではなく、各国が知恵を出し合っています。互いに学び合う国際機関での経験は必ず役立ちます。

国際保健、あるいは社会医学に興味を持つ医学生や医師にメッセージをお願いします。

世界中、どんな土地に行っても医療的な課題が存在し、医師としてできることがたくさんあります。目の前に仕事がやってきたときに、「こんなことはやりたくない」と突っぱねたり、「私にはできない」と尻込みしたりする前に、まずはチャレンジしてみる姿勢が大切だと思います。意外に思われるかもしれませんが、私にも受動的な側面があり、とにかく与えられた仕事に精いっぱい取り組んできた結果、今のキャリアにつながりました。真摯に取り組んでいればなんとかなりますし、なんとかならなかったとしても、必ず誰かが助けてくれます。

社会医学にも、国際保健にも共通して必要なのは、「好奇心」「想像力」「共感力」の三つだと考えています。自分とは立場の違う人々の生活にも好奇心を抱き、想像し、共感することがすべてのスタートです。そうした力を養うためにも、医療の世界に閉じこもらず知見を広げていき、分からないことがあれば素直に「分からない」と言って教えてもらう。社会医学のフィールドに立てば、医療関係者以外の人々とのかかわりが多くなります。国際機関に入れば、人種や文化の違う人々と共に課題に向き合えます。さまざま背景、価値観を持つ人々と一緒に同じ目標に向かうことは、私にとっては最高に面白く、WHOで働く醍醐味だと思います。

山本先生プロフィール写真

PROFILE

山本尚子(やまもと・なおこ)

1985年に札幌医科大医学部を卒業後、厚生省(現厚生労働省)入省。環境庁(現環境省)、防衛庁(現防衛省)、横浜市、佐世保市、浦安市、千葉県などで保健医療行政に従事する。1991年に岡山大学で医学博士、1992年に米国ジョンズ・ホプキンス大学で公衆衛生修士号(MPH)を取得。外務省国際連合日本政府代表部参事官、厚生労働省大臣官房総括審議官(国際保健担当)を経て、2017年よりWHO(世界保健機関)事務局長補(ユニバーサル・ヘルス・カバレッジ/ヘルシア・ポピュレーションズ担当)に就任。