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2021.03.22

【第5回】医系技官として国の健康課題に向き合う

内閣官房新型インフルエンザ等対策室・国際感染症対策調整室・新型コロナウイルス感染症対策推進室企画官
野田 博之先生

医師免許を持つ国家公務員として、官公庁や国際機関で働く医系技官は、全医師の0.1%しかいない超希少なキャリアです。社会医学の知見を生かし、保健医療の制度づくりを行うこの業務に、野田博之先生は約10年間携わってきました。現在は新型コロナウイルス感染症対策推進室企画官として、未曽有のパンデミック対策にも関わっています。医系技官を目指したきっかけから現職に至るまでの軌跡、仕事の魅力について話を聞きました。

高校時代に感じた、地域の健康管理を担う医師の必要性

野田先生は公衆衛生学を学ぼうと医学部に進学したそうですね。そのきっかけを教えてください。

私は高校時代、陸上競技部に所属し、長距離の選手として強豪校に追い付け追い越せと練習に明け暮れていました。その中で痛感したのが、医学的なケアの重要性です。そもそも強豪校の選手とは入学時点で実力差があります。それに加えて強豪校にはスポーツドクターなどもいて、けがに対するサポート体制が整っているところもあるという話を聞きました。けがをすると、それだけ練習ができず、さらに実力の差が開いていくことになります。「どこの高校の陸上競技部でも、けがを予防できるよう、医師に気軽に相談できるようになったらよいな」という思いが強くなりました。そして、「費用の心配なく、地域の健康管理に携わる医師に相談できるような仕組みができないだろうか」と考えるようになりました。つまり、医師が提供した医療サービスに関係なく登録された患者数に応じて報酬を受け取る「人頭報酬」のような仕組みです。

世の中にないのであれば作ればよい。そのような仕組みを作りたいと思い、医学部に進学しました。高校生のころは「公衆衛生」という言葉すら知りませんでしたが、最初から、地域の健康に医師として関わりたい、つまり公衆衛生に取り組みたいと考えていたわけです。ただ、大学で勉強していく中で、既に少なくとも半世紀前には、英国ではNational Health Service (NHS)として、General Practitionerを人頭報酬で配置する仕組みが作られていたこと、そして、その仕組みにも多くの問題が生じてきたことを知り、自分の考えの浅さに恥じ入ることになりました。

筑波大学に進学して医学生としてさまざまな分野を学び、いざ将来の進路を選択する際は、迷いました。この時の選択の一つの決め手は、「よく分からない」ということでした。スポーツドクターをはじめとする臨床医も魅力的でした。臨床医学の授業では、診断法と治療法という定型的な解決策が、授業や教科書でもそれなりには示されます。けれども、公衆衛生の授業では、結果としての施策が示されることはあっても、その施策にどのような考えで至ったのかが示されることはほとんどありませんでした。将来、医師になって仕事をしていくとしても、公衆衛生に関しては、どのようにすれば、そこにある課題を発見して解決できるかについて見当もつきませんでした。「分からなければ学ぶしかない」ということで、公衆衛生の道に進みました。その後20年近く、課題の発見と解決策の実施の方法を「体系化したい」と思いながら、公衆衛生の道を歩んできました。

大学卒業後、大阪大学で指導する立場にもなりました。ここではどのような活動をしていたのでしょうか。

写真:野田博之先生

筑波大学の学部生のころから指導を受けていた磯博康先生(現・大阪大学教授)が、私が大学院生の時に大阪大学へ移られたことから、助手として遅れて赴任しました。大阪大学は、戦後最初に公衆衛生学教室が設置された3校のうちの1校で、この分野における長い伝統があり、深い知見が蓄積されています。筑波大学から大阪大学にかけて、公衆衛生の専門家として「下積み」ができたことは、私にとって大きな糧となりました。

「下積み」の時期は、さまざまな仕事を振ってもらえます。どんな仕事でも振られることを嫌に思う人もいるかもしれませんが、この時期は、最も勉強になり、実力を大きく伸ばせる絶好の機会です。この時期を過ぎてしまうと、振られる仕事は選ばれ、減っていきます。その時にはくだらないと思うような仕事の中にも、経験していると10年以上たってから生きてくるものがあります。医学生の皆さんは、いつどこで「下積み」を経験すれば将来に生きてくるかを、十分に考えた上でキャリアを選択してほしいと思います。

筑波大学や大阪大学にいる間には、茨城県協和町(現・筑西市)を中心に、大阪府八尾市、秋田県井川町など、複数の地域で公衆衛生活動に携わらせていただきました。この時に「現場から情報を収集し、分析した上で、対策を構築する」という公衆衛生上の基本プロセスを十分に経験できたことが、今の私につながっていると思います。現場で実際に見聞きしたことが、後に予想外の局面で役立つケースも少なくありませんでした。この時期には疫学者としても、論文などを通して国内外のいくつもの議論に参加をさせていただきました。

厚生労働省に入省後は、地域での活動で得た経験や疫学者としての分析を基に、自信を持って意見を述べることができたことが幾度もありました。法律や教科書を読んだだけでは気が付きにくい落とし穴のような課題が時折あるのですが、現場で働く人々の動きを知っていると、解決策がおのずと見えてくるケースがあります。また、専門家といわれる人々がさまざまな分析結果を世の中に出している中でも、自らの手で分析をしていれば、その良し悪しを見極め、自信を持って対応することができます。リアリティーを持って政策に携われるわけです。

公衆衛生の醍醐味を存分に味わえる医系技官

厚生労働省に入省したのは、米国留学などを経た33歳の時です。これはどのような経緯だったのでしょうか。

当時、国の健康づくりの基本計画である「健康日本21」と「がん対策推進基本計画」の改定があり、その中で、それまでしばらく併任のポストになっていた「たばこ対策専門官」に専任で人を置くことになりました。その話を磯先生経由でいただき、大阪大学から人事交流として派遣されることになったのです。公衆衛生学や疫学の専門家として「地域での公衆衛生活動」「疫学調査・分析」「政策分析・立案」という3つの能力を身に付けたいと考えていたので、国レベルでの政策分析・立案に携われるということはありがたい話でした。

このときに着任した「専門官」や「課長(室長)補佐」のポストは、医系技官として一番やりがいのあるポストだと思います。もちろん上役に相談しながらではありますが、自らの思いを源泉として、具体的な政策を企画・立案できるポストだからです。一方で、このポストは、かなりの激務であることも事実です。特に厚生労働省の健康局は「戦場」と呼ぶに値する忙しさで、政策的な課題が噴出しているようなポストでは、「終電で帰れるかどうか……」というのが当たり前にもなってしまいます。

なぜ、人事交流の期間が終わった後も医系技官を続けようと思ったのですか。

医系技官は、公衆衛生上の基本プロセスを、その裏側も含めて学ぶことができるからです。ある施策が世の中で実現したとしましょう。その情報は多くの場合には報道を通して知ることになります。しかし、報道上の紙面や枠の制約もあり、「どうしてこの施策が必要だったのか」について網羅的に説明されることは少なく、問題だらけに見えてしまうことすらあります。けれども、物事の全容を知り、理解できれば、その施策がどのような必要性から生み出され、世の中に対してどういう効果があるのかが見えてきます。こうした答え合わせを含めて学ぶことは、他の職場ではなかなか体験できません。

私は、急性弛緩性麻痺を感染症法における届出対象疾患(五類感染症)に指定(2018年5月より適用)する仕事を担当したことがあります。ウイルスなどの感染が原因で四肢に運動麻痺が起きてしまう疾患です。15年の夏、日本で急性弛緩性麻痺の小児患者が急増するということが起きました。その原因はエンテロウイルスD68ではないかと考えられたことから、その後の対策として、エンテロウイルスD68に着目して急性弛緩性麻痺を感染症法の届出対象疾患にすべきという声が出てきました。ただ、その時の科学的知見としてはエンテロウイルスD68と急性弛緩性麻痺との因果関係を証明するまでには至っておらず、エンテロウイルスD68に着目して急性弛緩性麻痺の届出を義務化することは困難と思われました。ただ、100%の科学的知見が得られるまで待っていたら、備えがないままに、再度の流行に直面することにもなります。

この時、ポリオが世界的に根絶の最終段階に差し掛かり、施策の強化が図られていました。二類感染症であるポリオでも急性弛緩性麻痺を生じます。日本でポリオの患者さんを診察した経験のある医師は少なくなっているため、仮にポリオが日本で発生したとしても、医師がポリオを疑わず、見逃してしまう可能性がありました。「それならば」ということで、ポリオとエンテロウイルスD68の双方の課題解決策として、ポリオに焦点を当てて、急性弛緩性麻痺を届出対象疾患に指定しようとしたわけです。「なぜ今になって、ポリオに焦点を当てて急性弛緩性麻痺を届け出の対象にしたのだろう?」と思う人も少なからずいたかもしれませんが、こうした背景がありました。

未経験の分野でも、「専門家」になるための猶予期間は3カ月

現在に至るまで、さまざまな分野での仕事を経験していますね。一定期間ごとに、新しいことを学ぶのは大変ではありませんか。

写真:野田博之先生

どのような分野を担当しても、「現場から情報を収集し、分析した上で、対策を構築する」という公衆衛生上の基本プロセスは変わりません。臨床医が「別の病院に移って同じ仕事をする」という感覚に近く、内科医が外科医に転身するほどの違いはないようにも思います。ただし、ポストが変わるたびに、その分野の最新の知識を身につけなければならないので努力は必要です。「初めの3カ月は前任者の責任。それ以降は自身の責任」ともいわれます。不慣れな分野であっても初めの3カ月に知識を身につけ、課題を整理し、国内外の第一線の専門家とも議論できるようになることが求められるのです。

私の基本的な勉強法としては、まずはPubMedなどで関連する分野の論文を系統的に読みこむ「システマティックレビュー」を粗く行うことから始めています。それによって学術的な課題や論点のアウトラインをつかむと同時に、前任者からの引き継ぎ書をしっかりと読み込み、不明点を潰していきます。さらに、その分野の専門家を訪ねて、最新情報を直接教えてもらうこともあります。

ただ、こうしてさまざまな分野を担当していると、過去の経験が役立つこともあります。2020年3月からは新型コロナウイルス感染症対策推進室の企画官として働いています。未知のウイルスへの対応にはこれまでにない難しさもありますが、過去に新型インフルエンザを含めた感染症対策に取り組んできた経験が生きているといえます。

その新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の感染拡大が始まった2020年初頭以降、特にクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス号」の横浜入港前後からは、“戦場”以上の忙しさだったのではないでしょうか。未曽有の事態での働き方はどのようなものでしたか。

正直、「桁違い」の忙しさでした。2020年の大晦日も年明け近くまで仕事をしていました。

クルーズ船には、ほぼ一つの村から町に匹敵する人数が暮らしています。今回の事例を例えるならば、新興感染症の大規模な集団感染が発生した自治体が、突然出現するというレベルの非常事態でした。この地理的に突然出現した”自治体”に対する医療提供体制などを助走なく用意する必要があったのです。前例がない状態で臨んだ、世界初の巨大オペレーションでした。

ダイヤモンド・プリンセス号が沖縄で検疫を終え、横浜港に向かって来るという時に、船内の感染状況の情報が入ってきました。横浜港に着岸した後にどうするのか。乗客などを全員下船させるという方法もあったかもしれませんが、最終的には、船そのものを隔離場所にするという方法が取られました。横浜港着岸後、感染対策が開始されたことで、感染はほぼ抑えられたことがその後の論文などでも示されています。

横浜港着岸後は外国人の乗客やクルーを帰国させるオペレーションも発生しました。各国は自国民を保護する義務を負っていることから、各国大使館からもさまざまなルートを通じて協力を求められることになりました。航空機の調整や陸上輸送、宿泊施設の確保や運営なども含め、各省が協力して行う必要があるさまざまな業務が発生しました。

この1年、この他にも、武漢の在留邦人の救出など史上初の取り組みがいくつもありました。全省庁が全力で対応せねばならない事態の連続でした。個人的に心掛けたことは、寝る時間を最大限確保することです。なかなか難しいことですが、仕事の質を落とさないためにも気をつけました。

社会医学に興味を持つ医学生・医師たちへメッセージをお願いします。

政策に携わりたいという思いがあるならば、ぜひ医系技官として活躍する道も考えてほしいと思います。実際に、臨床医を経て、30歳代で厚生労働省に入省するというケースも多くあります。社会医学系の医師は臨床医と比べると非常に少なく、ロールモデルが見つけづらいといって二の足を踏む人もいるかもしれません。けれども、社会医学系専門医制度ができたことで、だいぶ姿が見えやすくなったのではないでしょうか。

私は長距離という競技を通して、「何事も自らの力だけで全てをコントロールすることはできない。」ということを学びました。長距離は「自分との闘い」が全てだと思われるかもしれませんが、レース自体は参加する全ての選手が織りなす流れや風などの自然環境によって95%以上が作り上げられていくものです。自らが関与できる部分はそのごく一部でしかありません。全体の流れを読み、自らが力を発揮すべきタイミングを見極めて、そのタイミングで力を発揮する。

長距離で培ったこの見方は公衆衛生の仕事にも通じるところがあります。これまで、公衆衛生の道を歩んでこられたのは、自らの経験値を積み重ねられているという実感があったからということもありますが、ここまで引き上げてくださった方々に恩返しをしていきたいという思いもあります。引き続き、医系技官として国の健康課題の解決に全力を尽くしたいと思います。

画像:野田博之先生プロフィール写真

PROFILE

野田 博之(のだ・ひろゆき)

2003年、筑波大学医学専門学群を卒業後、同大学大学院人間総合科学研究科博士課程へ進学。06年に大阪大学大学院医学系研究科助手。ハーバード大学公衆衛生大学院への留学(研究員)を経て、10年から大阪大学医学部附属病院特任講師、大阪大学大学院医学系研究科講師を務める。12年、厚生労働省のたばこ対策専門官に着任。環境省石綿健康被害対策室室長補佐、厚労省新型インフルエンザ対策推進室長、エイズ対策推進室長、国際感染症対策室長などを経て、18年から現職(20年3月より新型コロナウイルス感染症対策推進室企画官を併任)。日本公衆衛生学会代議員。日本疫学会代議員。日本公衆衛生学会認定専門家。社会医学系専門医協会社会医学系指導医。ORCIDページ(英文)はこちら