2022.07.25
災害大国の日本では、災害リスクを下げる仕組みづくりが非常に重要です。麻酔科医としてキャリアを始め、愛知医科大学災害医療研究センター講師を務める高橋礼子先生が、災害医療のやりがい、出産や子育てなどについて、女性医師の視点から語っています。
日本は災害大国と言われます。地震、火山の噴火、水害……毎年のように全国どこかで大きな被害が生じています。自然の猛威によるものだけではなく、交通事故などの人為的災害もあとを絶ちません。被災地で人命を救うこと、被害の拡大を一刻も早く止めること、そして平時から災害のリスクを下げる仕組みを社会に根付かせること――。それが災害医療の基本的な役割です。麻酔科医から災害医療のプロフェッショナルにキャリアの枠を広げていった愛知医科大学災害医療研究センター講師の高橋礼子先生。そのご経験から災害医療のやりがいと、二つのキャリアを歩む醍醐味、そして難しさを伺いました。出産、子育てという女性のライフイベントへの向き合い方への重要な示唆も含まれたお話です。
私は両親がともに歯科医師で、その背中を見て育ったので、小さい頃から自然と同じ道を歩むつもりになっていました。ところが小学校の高学年くらいに、父から「君は意識が外に向かうタイプだから、医師のほうがマッチすると思うよ」と言われたのです。進路として医師を意識するようになったのは、その時からです。
私の祖父は父方、母方ともに医師で、愛知県にあった両親の歯科医院は外科医だった母方の祖父が経営する救急病院の隣に建っていました。家の隣にある“おじいちゃんの病院”には子どもの頃からしょっちゅう出入りしていて、「お医者さん」も身近な職業でした。祖父は、昼夜問わず出入りする救急車に全身全霊で対応して、患者さんからの信頼も厚い人でしたので、その姿を見るうちに、「救急対応を含めてなんでもできるおじいちゃんみたいなジェネラルな外科医になりたいな」という思いが形になってきました。
高校時代には医師志望が明確になり、藤田保健衛生大学(現・藤田医科大学、愛知県豊明市)へ進学しました。大学では勉強も自分なりにしっかりやりましたが、バドミントン部に所属して、部活動にもかなり打ち込みました。歴史があり、先輩、後輩含めて仲のいい部で、OBの方も含めて部活由来のご縁は今も続いています。当時の私には災害医療や公衆衛生学に関する知識はあまりなく、将来の自分が災害医療の道を選ぶことも、社会医学系専門医になることも、思いもよりませんでした。
初期研修は豊橋市民病院(愛知県豊橋市)で受けました。いずれ大学の外科の医局に戻るつもりだったので、愛知県内で研修を受けたいという気持ちがあったのと、周囲の人の話を聞いても、実際に見学をさせてもらっても、初期研修医に積極的に現場を経験させようという方針を感じられたことが、選択の決め手でした。実際に1年目からER業務に本格的に携わらせてもらいましたし、志望していた外科だけでなくさまざまな領域にこのタイミングで触れられたことは大きな価値があったと思います。
自身がやりたいことと将来のビジョンについて見つめ直した結果、初期研修を終えた時に麻酔科に進むことを決めました。もともと外科志向だったのは、手術を通して患者さんを直接治療し、医師としての貢献度を目に見えるかたちで実感できる、と感じたからです。それに術後ケアのような全身管理にも強く興味を抱いていました。実は、これらは麻酔科領域と類似した部分があります。加えて、麻酔科はオンとオフの区別がはっきりしている、と初期研修で実感できたことも大きかったですね。
ちょうど初期研修1年目の時に今の夫に出会い、将来について互いに思いを巡らせる機会が増えたということも影響しました。彼も外科志望だったので、結婚して夫婦そろって外科医になると、家族としてのワークライフバランスが保ちにくいかもしれない――。そうした思いもあって、やりたい仕事と私生活をバランス良く両立できそうな麻酔科を私は選ぶことにしたのです。
麻酔科医としてある手術に立ち会っていた時、執刀医の先生に「災害って興味ある?」と突然言われたんですよ。「あります!」と言ったら、DMATの隊員養成研修に誘ってくださいました。医師になって3年目です。おそらく若くて、どこかに異動する予定もなく、麻酔科で全身管理も一応できる、ということで軽い気持ちで声をかけてくださったんだと思います。でもその時のノリで答えたわけじゃなくて、学生時代から外傷診療や、その延長としてのトリアージ(重傷度や治療緊急度に応じた傷病者の振り分け)に関心は持っていました。ただ詳細が分からないまま「やってみたいです!」と言ったのも事実ですね。東日本大震災の前、2009年のことです。

そうしてDMAT研修は受けたんですが、その後は特にそれを生かす機会もなく、しばらくは麻酔科医としての日々を過ごしていました。そんな時に東日本大震災が起こりました。当時も豊橋市民病院にいましたが、「とにかく現地の人の力になりたい」「ここで被災地に行かなければ、なんのためのDMATだ!」って奮い立って。行くなって言われるなら辞めてやる!くらいの気持ちでした。自分がどこまで役に立つかも分かりませんし、市民病院としての通常業務はしっかりあるのですから、今ならもっと慎重に考えたはずです。若さゆえの勢いもあったと思います。震災発生3日後の3月14日にDMAT隊員として宮城県に入りました。被災は想像をはるかに超えてすさまじかったですが、その経験が災害医療を自分の仕事にする、という思いを確固たるものにしてくれたのは間違いありません。その結果、日常の職場に戻ると、被災地に対して直接の行動が起こせないことにモヤモヤするようになってしまいました。
転機は医師6年目の2013年です。夫の異動に伴って関東に転居することが決まり、次の職場を探しつつ、DMATの技能維持研修を受講しました。そこでDMAT事務局次長の先生にお会いした際、「もっと災害医療の勉強をしたいんです」と相談したら、事務局の見学を手配してくださり、そのご縁からそのまま入職することになりました。
事務局に入って気づかされたのは、それまでの私が考えていた災害医療は、外傷診療やトリアージの手法など臨床医学に共通するごく一部の領域に限定されていたということです。事務局での仕事は、社会における災害医療の体制構築という面が大きなウェイトを占めます。日本の災害医療を最適化し続ける仕事、と言ってもいいと思います。
具体的には、全国での災害時の対応は当然として、災害医療を学びたい医療従事者への研修の企画と実施、行政との各種の調整、災害の政策研究などの仕事が膨大にあります。災害医療の現場から寄せられるさまざまな経験に、行政、政策面での知見、研究成果を織り交ぜながら新たな施策に反映させたり、自衛隊、消防、警察といった他職種と連携したり――。臨床とはまったく異なる仕事、味わえない経験を通して「社会に対して医療を施す」ことの必要性を実感しました。同じ医師としての仕事でありながら、臨床の現場で目の前の患者さんと一対一で向き合ってきた時とは、意識も視点も180度変わったのを痛感しました。業務のスケールが大きいので、一筋縄ではいかないことばかりでしたが、自ら発案したアイデアが自治体の災害対策計画に盛り込まれる、などの形で実を結んだ時は、大きなやりがいを感じました。
DMAT事務局に入って4年目、「今の立場にいる限り、どうにもならないことがある。指示命令が飛んでくる『向こう側』の景色を知りたい」と感じるようになりました。そこで、「向こう側」である厚生労働省と、DMAT事務局の人事交流に手を挙げ、1年間限定の医系技官になりました。配属されたのは大臣官房厚生科学課健康危機管理・災害対策室という部署で、役職は国際健康危機管理調整官。健康危機事案が生じた時の国際的な窓口となる仕事です。実際に担当したのは、北朝鮮からミサイルが飛来した時の対応、東京開催を控えていたオリンピック・パラリンピックの医療体制構築やテロ対策、海外の健康危機事案、主に感染症の情報収集・発信などです。特に国際案件については、英語での対応も多くありました。
思い切って飛び込んだ環境でしたが、この仕事は私にはかなりきつく、思うようには進められませんでした。一時は体調不調に陥ったほどでしたが、職場から手厚いフォローもいただいて、本当に濃密な学びの機会として生かすことができました。
以後は再びDMAT事務局に戻り、災害医療の魅力を感じながら仕事をしています。コロナ禍が始まった2020年初頭は妊娠中でしたが、神奈川県庁のサポートとしてダイヤモンド・プリンセス号事案の対応に当たりました。厚生労働省での経験や人脈を生かし、より深く、より幅広く業務に携われるようになったと思います。
また事務局に戻った1年後には、社会人になってから大学院に進学した愛知医科大学とご縁があり、災害医療研究センターの講師に就きました。現在は、大規模災害時における保健医療福祉対応などをテーマとして研究もしつつ、災害医療関連の研修企画や運営に携わったり、愛知県の災害医療体制の充実化に力を注いだりしています。コロナ禍以降は、愛知県庁などで患者さんの搬送調整やクラスター発生病院・施設への支援といった業務も行っています。
実は今もアルバイトで麻酔科の仕事は続けています。麻酔科医には、患者さんの安全を守りながらいかに苦痛を緩和するかを追求するやりがいがあります。災害医療とは一味違った醍醐味があり、どちらも私にとって欠かせない仕事です。

私には2歳になる子どもがいます。現在は、研究や研修の企画運営、コロナ対応など含め、子どもを保育園に預けられる時間帯であれば安定して仕事ができていますし、学会や研修等の数日間の出張も、夫や実家の両親の力を借りながら行くこともできています。妊娠する前のように遠方の被災地に何週間も出張するような働き方は難しいですが、各地の災害医療体制の評価、更新など平時にやらねばならない仕事はたくさんありますし、今の私だからこそできることも数多くあると思っています。
女性はキャリアを考える時、誰しも妊娠や出産のタイミングに悩むと思います。でも自分の経験でも、周りを見ていても、なかなか思い通りにならないのが現実ではないでしょうか。私自身、医師4~5年目くらいで子どもを産むことをイメージしていましたが、実際には想定より後の子育てスタートになりました。今になって思えば、若くして全力で仕事に打ち込める期間がある程度長かったからこそ、災害医療や厚生労働省の現場をしっかり経験でき、出産を経て復帰した時にも奥行きや広がりのある仕事ができるようになったと思えます。逆にもっと若い時に妊娠・出産を経験することで見えてくる世界もあるはず。ベストのタイミングを思い悩むより、今できることに全力で取り組むほうが有意義なのかもしれません。後輩の女性医師や学生の皆さんには、妊娠や出産がいつになっても「自分にとってのベスト」にできるよう、何ごとにも柔軟な姿勢を持ち、周囲とのコミュニケーションを大切にして、一人ですべてを抱え込まないことを心がけてほしいですね。
特に後進の育成という観点で、重要な出来事だと思います。実際に若手の医師や医学生から「将来的に災害医療に従事してみたい」という問い合わせをもらうことも増えました。その時は、キャリアパスの一つとして紹介しています。またこの制度は、臨床と社会医学系分野の橋渡しをする「ツール」にもなると感じています。私たちはコロナ禍を経験したことで、臨床と公衆衛生の連携がいかに重要かを痛感しました。社会医学の構成要素である災害医療や公衆衛生などの領域と、臨床医学を適切につなぐことが、社会全体を救うことになると期待しています。
社会全体を俯瞰して、そこに貢献したいという思いが少しでもあれば、ぜひ社会医学の世界に飛び込んでほしいと思います。世の中がどう動き、その背景に何があるのかを肌で感じられるようになると、医師としての見識の「解像度」が一気に上がります。これは臨床にいるだけでは味わいづらい感覚です。未知の領域に挑戦する不安が大きいようなら、専門医資格を取得してからでも遅くはありません。自身の専門性を確立してから、新たな道に挑戦するのも一案です。
学生の皆さんには、早くから自身の可能性を狭めないでほしいですね。講義や実習で慌ただしい毎日だとは思いますが、若いからこそフットワーク軽く動いて知見を広げることで、選択の幅がグッと広がります。少しでも興味を引かれることがあれば、それを学べるチャンスをつかみにいってください。勉強系のサークルや国際支援の団体など、探せば探すほど新しい世界へのドアが開いていますし、そこには飛び込んだ人にしか見ることのできない風景が広がっていますから。

2007年、藤田保健衛生大学卒。豊橋市民病院で研修後、国立病院機構災害医療センター・DMAT事務局、厚生労働省などを経て愛知医科大学災害医療研究センター講師。この間、東日本大震災、御嶽山噴火、茨城県常総市水害、熊本地震、大阪北部地震、2019年台風15号、19号など全国各地の災害において、現場、地元自治体のDMAT本部、DMAT事務局などでさまざまな医療活動に参加してきた。2020年初頭からは各地のCOVID-19対策にも従事している。博士(医学)、社会医学系指導医、麻酔科専門医、日本DMAT隊員、統括DMAT、DMATインストラクター。