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2021.10.04

【第9回】被災地に思いを寄せ続け、健康危機管理のスキームを整える

厚生労働省健康局健康課地域保健室
地域健康危機管理対策専門官
近藤 祐史先生

「災害医療」と聞くと、「大地震などの被災地で傷病者を手当てする」というようなことを連想するかもしれませんが、実際の現場で医師に求められる役割はより広範にわたります。自然災害のリスクが高い日本において、社会医学的な視点は災害医療にどう生かされるのでしょうか。今回は、日本DMAT隊員として数多くの災害現場へ赴き、現在は厚生労働省で地域健康危機管理対策専門官として活躍する、近藤祐史先生に話を伺いました。

ベテラン看護師も言葉を失った「3.11」の経験

近藤先生が医師を目指し、中でも災害医療に興味を持ったきっかけを教えてください。

私は福岡県北九州市出身で、ごく普通の家庭で育ち、人の役に立つ仕事に就きたいという思いから医師になろうと思うようになりました。特に、発展途上国で貧しい子どもたちを助けるような医師像にあこがれがあり、熱帯医学研究所を擁する長崎大学へ進学したのです。大学時代はラグビーに打ち込み、お世辞にも優等生とはいえませんでした。6年生になり初期研修先を探していた際に、友人から「国際救援とか興味あるんじゃなかったか」と渡された日本赤十字社医療センターの資料に触れて、医師を目指したころの志を思い出しました。

2006年に大学を卒業し、友人のアドバイス通り、初期研修では日本赤十字社医療センターに進みました。脳神経外科をサブスペシャリティに持つ救急医を目指す予定が、脳外科領域に思いもかけず重心を置くことになったのでした。ただ、国際救援への関心は変わらず強く持っていたので、できる範囲で、訓練や研修、そして実際の災害救援に参加し、少しずつ経験を積むことにしました。

11年には、日本DMAT(災害派遣医療チーム)隊員資格を取得しました。東日本大震災が発生したのは、その1カ月後です。ただちに出動し、福島県に向かうよう指示を受けました。いきなり未曽有の大災害が起こった現場へ身を投じることになったわけです。20歳代後半、後期研修が終わりかけのころでした。

ほとんど情報がないまま福島県へ向かう途中、栃木県宇都宮市の東北自動車道上河内サービスエリアで津波の映像を見て衝撃を受けました。私よりずっと経験豊富な同行の看護師でさえ、立ちすくんでしまっていたことを覚えています。

私達のチームは福島県立医科大学(福島市)のDMAT活動拠点本部を経由し、南相馬市立総合病院を訪れました。到着したときは多数の患者さんが廊下に寝かされている状況でした。当然ですが、現地の医師や看護師もまた被災者です。彼らが家族の安否すら分からない状態で必死に働いていた姿が忘れられません。そのまま救援の手が届かないと、彼らは職務への責任から2、3日以上も働き通してしまいます。そんなことになったら、当然精神的にも体力的にももちません。このときは、私は重症者を福島県立医科大学附属病院へ搬送しなくてはならなかったため、南相馬市立総合病院に留まってそこにいる人たちの助けとなることはできませんでしたが、被災地の外から、私達のような支援者がいち早く助けに入り、彼らに少しでも休んでもらうことの大切さは強く心に刻まれています。

福島県滞在中に、原発事故が起こったとの一報が入ってきました。事故現場との距離感も被害状況も分からない中で、見えない恐怖と闘う感覚でした。災害医療の現場で身の危険を感じる瞬間はゼロではありませんが、気が張っているため、きつさはあまり感じないものです。この時も恐怖は感じましたが、それに潰されるような感覚はありませんでした。しかしそれは、私たち支援者は、自分の生活圏に帰れば日常に戻れるからです。被災地に住んでいる人の終わりが見えない辛苦は想像を絶するものがあります。そこに思いを寄せ続けることができなければ、災害支援を行う資格はないと思っています。

災害支援の経験について話す近藤さん

東日本大震災を経験した後、厚生労働省のDMAT事務局に活動の場を移しました。どのような思いからですか。

震災当時のことを今思い出しても、「まだやれることがあったんじゃないか」と後悔が湧いてきます。この歯がゆさが、どんどん災害医療へと気持ちを向かわせることになったのかなと思います。脳神経外科専門医資格を取得し、次は災害医学で学位を取りたいと考えたのですが、そのような前例が見当たりませんでした。そこで、当時武蔵野赤十字病院の救命救急センターの部長を務められていた故・勝見敦先生に相談したところ、「DMATのインストラクターになれば、災害医療のトップクラスの人たちと出会えるから、道が拓けるんじゃないか」とアドバイスをいただきました。そうして、インストラクターの研修に参加した初日に、事務局長の小井土雄一先生と、事務局次長の近藤久禎先生から誘われ、14年春にDMAT事務局に籍を移しました。

DMAT事務局では、実際に被災地へ赴くことはもちろん、研修の準備や講義を担当してロジスティクス(後方支援担当)も経験できたことが大きな収穫でした。中でも内閣府が主催し、参加者が2000人を超える大規模地震時医療活動訓練の企画・運営に当たり、各省庁や出先機関との調整を担ったことは大変勉強になりました。

また、同時期に東京医科歯科大学大学院へ進学しました。内閣府主導のプログラムの一環で携わった、基盤的防災情報流通ネットワーク「SIP4D」の研究を論文としてまとめるなど、DMAT事務局での活動を生かすことができました。

SIP4Dは、「3.11」を経て浮き彫りになった課題を解決するために開発された仕組みです。災害現場では組織の垣根を超えた連携が求められるのにもかかわらず、それぞれが保有するデータをうまく共有できていませんでした。そこで、情報の統合と共有を仲介し、各組織が持つシステムに横串を通すことで、災害時に円滑で的確な対応ができるようになります。これによって、国の防災スキーム全体が一歩前進したといっても過言ではありません。

災害医療と感染症対策は「一蓮托生」の関係

その後は日本赤十字社医療センターに戻り、新型コロナウイルス感染症(COVID‑19)の対応にも奔走したそうですね。

日赤医療センターに戻ったのは、入職当初に興味を持っていた救急医療にチャレンジしようと決意したからです。災害医療がライフワークになっていたので、いつでも現場に行けるよう、シフト勤務に近い形で融通の利く働き方ができることも魅力的でした。そうして災害と救急という2つの軸で経験を積む中、コロナ禍に見舞われたのです。日本に第1波が到来したのは2020年3月ですが、4月ごろまではまだ社会がCOVID‑19の本当の恐ろしさを理解していない段階で、目の前で増え続ける患者に無我夢中で対応していました。院内のコロナ対策本部の設置、保健所との折衝などにも力を尽くしましたが、ほとんど救命救急センターに閉じこもっている状態だったので、他の医療機関の状況や、事態の全体像が見えないという不安がありました。

当時は、患者の急増に対して病床数がまったく追い付いておらず、その確保に苦労しました。このままでは欧米並みの医療崩壊に至るかもしれない。そうした危機感から、医療現場の実態を広く知ってほしいという思いで、NHKの報道番組「クローズアップ現代+」の取材も引き受けました。カメラに密着された夜は、ちょうど「きつさのピーク」でした。どこに連絡しても空き病床が見つからず、もうどうにもならない状況で……。当直が明けて緊張が解けた瞬間に、医師人生で初めて涙がこぼれました。

2020年、医系技官として厚生労働省へ派遣されてからは、災害医療とどう向き合ってきたのでしょうか。

私が厚生労働省から依頼されたタスクは、DHEAT(災害時健康危機管理支援チーム)の整備などによって健康危機管理体制を確立することでした。DHEATは災害対策のトレーニングを受けた保健所の職員などで構成され、被災地に派遣されて保健・衛生行政のマネジメント業務を支援します。

こうした役割が注目された背景には、16年の熊本地震の教訓が大いに関係しています。生き残ったものの、家を失った人々がたくさんいました。そこで、保健活動のニーズが拡大し、関係する人や組織が増えていったため、現場を取りまとめる高度なマネジメント能力が求められました。災害発生直後の急性期医療活動に長けたDMATに対して、次のフェーズに必要な公衆衛生を担うのがDHEATともいえます。このように、一つひとつの災害から得られた教訓を制度や仕組みに落とし込み、次世代へつなげることが重要だと考えています。

現状、厚労省での私の仕事は、コロナ関連の業務が全体の約8割を占めています。入職してすぐ、COVID‑19の第3波が到来しました。それからというもの、北は北海道旭川市から南は沖縄県の石垣島まで訪ね、厳しい状況に追い込まれている保健所や自治体の本部で職員の皆さんと一緒に問題に対応してきました。東京五輪・パラリンピックの際には、選手村の保健所機能を担う東京都の保健衛生拠点にも入りました。そのほか、感染拡大地域に看護師などの専門職を派遣する人材バンク「IHEAT」の運用にも携わっています。

こうしたキャリアを歩んできて、自然災害でも感染症でも大事になってくる「根っこ」は同じ「健康危機管理」だということを、身をもって理解しました。双方の領域で応用が利く知見は多いので、領域横断的な視点を持って事態に対処することを意識しています。

ご自身のキャリアを語る近藤先生

1.2億人を対象にする壮大なスケール感

自然災害やパンデミックといった過酷な現場に立ち、何を感じましたか。

2013年の伊豆大島の土砂災害以降、ほとんどの大規模災害で現地に入ってきました。多くの場面で必要になったのは、マネジメント能力です。立場や専門性が異なる複数の組織をコーディネートするときに、何よりも大切なことは、目的を見失わないことだと考えています。調整役の立場では各方面からの声が聞こえるだけに、思考がかき乱されて方向性がぶれてしまいがちです。目的をしっかりと見定めて物事を進めるため、いわゆる交渉術やコミュニケーション能力は必須といえるでしょう。

私の場合、目的に向かって前進し続ける強さは、ラグビーから学んだ部分も大きいです。ラグビーは、1チーム15人全員のポジションが異なり、おのおのの役割を果たしながらボールを前に進めていきます。チーム全員の目的の為に「先輩ごと敵をなぎ倒す」など、仲間を踏み越えてでも前進することを選択するようなシーンは、他のスポーツにはあまりないのではないでしょうか。あちこちからパスを求める声が聞こえる中、全体を見て誰にボールを回すのが最適かを判断し続けるラグビーの経験が、今につながっている気がします。

最後に、社会医学系に興味を持つ医学生や医師たちへメッセージをお願いします。

キャリアの初期から社会医学を志す医師は、もちろん尊い存在です。一方で、臨床の仕事をしているうちに社会医学にたどり着く医師も多いと思います。現に、私がそうでした。救急の現場で患者を助けるための修行を重ねていくと、「どうしたらもっと効率よく患者を救えるだろうか」と考えるようになります。その時点で、公衆衛生の入り口に立っているといえます。私はDMATで被災地のマネジメントを必死に行ってきましたが、「これを公衆衛生と呼ぶのか」と気付いたのはここ数年のことでした。

また、公衆衛生には学術的な印象があるかもしれませんが、実際のところ、これほど臨床感覚が問われる分野はないと思います。マネジメントする立ち位置から大勢の人たちの健康を守ろうとする際には、臨床の場で一人ひとりの命に向き合った経験が生きてきます。若いころから社会医学を志す医学生やレジデントはもちろんのこと、鋭い臨床感覚を有する医師にもこの領域に参加してもらうことが、全体のレベルアップにつながると確信しています。特に、具体的な事例から共通項を見出し、一般化して応用するプロセスを楽しいと感じられる人は、社会医学に向いているように思います。

社会医学領域の対象者は約1.2億人、つまり日本国民すべてです。国際的な活動を視野に入れるなら、さらにその数は膨れ上がります。これだけの人々を相手に、1人でも多くを助けられるよう働くスケール感そのものが、私の場合は大きなやりがいにつながっています。

近藤先生プロフィール写真

PROFILE

近藤 祐史(こんどう・ゆうじ)

2006年、長崎大学医学部医学科卒業。日本赤十字社医療センターで初期・後期研修を修了。後期研修中に日本DMAT隊員となる。2014年、厚生労働省DMAT事務局へ移籍。同時期に東京医科歯科大学大学院へ社会人大学院生として進学し、医学博士号取得。17年に日本赤十字社医療センターへ戻り、救急医として勤務する傍ら、災害医療にも継続的に関わる。20年12月、厚生労働省健康局健康課地域保健室に地域健康危機管理対策専門官として着任。日本救急医学会救急科専門医、日本脳神経外科学会脳神経外科専門医、日本DMAT隊員・インストラクター・統括DMAT認定者、東京DMAT隊員、日本赤十字社災害医療コーディネーター。社会医学系指導医・専門医。