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2019.02.05

ダートマス大学 腫瘍内科准教授 白井敬祐(しらい・けいすけ)先生

患者と医療者
立場を超えて、思いをくむコミュニケーションが
前向きな医療をつくる

患者と医療者 立場を超えて、思いをくむコミュニケーションが 前向きな医療をつくる

2010年、厚生労働省が「チーム医療の推進に関する検討会」報告書を公開してから、およそ9年。他職種が連携するチーム医療の必要性は広く指摘されるようになり、実践もさまざまな形で試みられるようになった。しかし、定期的にカンファレンスを開催するだけ、チームはあっても意思決定のプロセスは一方通行……などその実態はさまざまで、理想と現実との間には、依然いくばくかの乖離があるようだ。

一方、古くから医療界で議論となる「患者・医師間のコミュニケーションのあり方」も、あるべき姿は語られているものの、現場での取り組みの難しさに悩む医療者は多いだろう。

長く米国でがん医療に携わるダートマス大学腫瘍内科准教授、白井敬祐さんは、そんな日本に「チーム医療」と「コミュニケーション」の素晴らしさを伝え、広めたい、と話す。いま、白井さんに海を越えて日本から講演依頼が殺到するのは、日本の医療界が白井さんの持つ“熱量”に、現場の悩みや疲れを打ち払う役目を期待するからかもしれない。

汗にまみれた青春時代、 学びたい“師匠”は自力で探す

患者満足度がほぼ満点

進行がんの治療において、A、B、Cと3つの選択肢があるとする。それぞれの効果に対する期待が同程度の場合、あなたが医師であれば、患者に「ご自身で決めてください」と意思決定を委ねた経験はあるだろうか。あなたが患者側である場合、そのように委ねられたり、同様のケースを見聞きしたりしたことがあるだろうか。

インフォームドコンセントや医療の自己決定という言葉が、日本でも一般に知られるようになって20年以上が経つ。その理念に基づけば「あなた自身が決めて」という投げかけは至極妥当のようにも思えるが、個人の権利についての意識が高い米国で、がん患者と向き合う白井敬祐さんの考えは違う。「僕は決して“It’s up to you.”(あなた次第です)とは言いません。『一緒に決めましょう』“It is up to us.”です。患者さんの決定を助けるのが僕たち専門医ですから」

白井さんは現在、米東海岸、ニューハンプシャー州にあるダートマス大学で准教授(Associate Professor)を務めている。ハーバードやプリンストン、イェールなどと並び称される「アイビーリーグ」8大学の一角を占める名門だ。所属は大学傘下のダートマス・ヒッチコック・メディカルセンターの腫瘍内科。白井さん自身は肺がんや、皮膚がんの一種メラノーマ、そして緩和医療を専門とする。

センターのウェブサイトには白井さんはじめ医師のプロフィールページがある。日本でもよく見るものだが、驚くのは“Patient satisfaction ratings”、つまり患者満足度と、“Patient comments”、患者コメントの欄があることだ。「満足度」の方は、グルメサイトのように5段階評価がついている。「説明が明瞭である」「丁寧に話を聞いてくれる」など評価項目は6つあり、白井さんの評価はすべて4.9か5。評価した患者はいずれも100人近くいるにもかかわらず、だ。白井さんの人気が非常に高いのは間違いない。

ニューハンプシャー州は米国独立時の13州の一つ。いわば米国の古都であり、住民の9割以上は白人で、その伝統的な価値観が根強い土地柄だ。そんな中で日本人の白井さんが、圧倒的な患者の支持を得る理由はどこにあるのか。実は日本でも、その秘密を知りたいという声は強く、近年、白井さんは年に数度帰国し、各地の大学、病院などで講演を行っている。専門分野の最新情報がテーマとなることも多いが、米国の医療事情、特にチーム医療の実践方法や、医師・患者関係の構築法に関するレクチャーを求められることが増えているという。

「同じページに載っているか?」

「アメリカでは“Are we on the same page?”という表現をよく使います。医師、看護師、患者さんとその家族、その全部が『同じページに載っているか?』。つまり皆が患者さんの治療について同じ方向を向いて努力しているか?という意味です。このこと、簡単なようで、皆がかなり努力しないと維持できないんですよ」

例を挙げてくれた。「たとえば僕がある患者さんに抗がん剤を処方しても、実際に点滴をする化学療法担当の看護師が心の中で『Dr.白井は、この患者さんにまだ抗がん剤を使うつもりなの?』という疑問や不信を感じてたら、それは患者さんにも伝わってしまいます。これは僕と看護師が『同じページ』に載っていないことで生じる弊害です」。患者が治療の継続を求めていないのに、その家族が「どうしても続けてほしい」と粘るようなケースも、患者と家族が「同じページに載っていない」と言うのだそうだ。

「患者さんと“on the same page”になってへんなあ、と思ったら、僕は仲間の看護師に援助を頼みます。車を買う時、同じディーラーのセールスの人から『この車いいですよ』と3回言われるより、同僚が気に入っていたり、ウェブでのレビューが良いとか、親戚が乗っていて満足度が高いといった別の角度からの話の方もあったりした方が、心が動くやないですか。その心理です」。シンプルで分かりやすいたとえ話が、英語と関西弁のちゃんぽんで次々に飛び出してくる。

アメフト漬けの学生時代に抱いた「死」への関心

大阪府出身の白井さんは、府立四条畷高校を経て、京都大学に進学した。理由は「アメリカンフットボールがしたかったから、そして家から一番近い国立大学やったから」。京都大学アメリカンフットボール部「ギャングスターズ」は、1986年、87年と大学選手権「甲子園ボウル」と日本選手権「ライスボウル」を2連覇。以後、90年代まで黄金期を築いた。「僕が中学の時、ほんまに強かったんですよ。僕は少し足が速いくらいやったんですけど、テレビで見て、京大入ってアメフトやるぞ!と」

90年、最初の受験では医学部には合格せず、工学部建築学科に入学した。もちろんギャングスターズにも入部。「建築家か医師になりたい」とは思っていたが、「もう1回くらい、受けてもええな」と翌年、医学部に再挑戦し、合格した。工学部で取得した単位も移行でき、「7年間で6年分の勉強をゆっくりやったようなもんです」。ギャングスターズは伝統的に、部員に対して学業と部活の両立を厳しく求める。ゆえに授業の厳しい医学部の部員はごくわずかだ。しかも白井さんの在学中も学生王者を一度獲得している。練習の過酷さは推して知るべしだ。白井さんも「基本的にクラブ中心の生活でした」と振り返る。

1991年10月、医学部1年生の時にランニングバックとして出場した関西大学アメリカンフットボールリーグ、対同志社大学戦。中央でボールを持つのが白井さん=提供・白井敬祐さん

1992年12月、第47回甲子園ボウルで、京都大学は法政大学を倒し、大学日本一に。右から2人目が白井さん=提供・白井敬祐さん

それでも、医師としての将来像は頭の中にあった。「死と、死にまつわるコミュニケーションにすごく興味がありましたね」。学業とクラブ活動の合間に、柳田邦男の『「死の医学」への序章』や、山崎章郎の『病院で死ぬということ』などの本を手に取った。「最初は、心臓外科みたいな、自分の技術で患者さんを元通り治せる医療もええなあ、と思ったんですが、そのうち必ずしも元に戻れなくても、その人なりのクオリティ・オブ・ライフを維持しながら、患者さんの日々の気持ちの揺らぎに向き合っていく仕事もありかな、と漠然と思うようになりました」

卒業後の97年、白井さんを「お前に向いている」と横須賀米海軍病院に誘ったのは、大学で1年先輩だった椛島健治さん(現・京都大学大学院医学研究科皮膚科学教室教授)だ。殺し文句は「給料をもらいながら、24時間英会話の勉強ができるし、24時間使えるトレーニングジムもあるぞ」だった。「行ってみたら、教えているのはアメリカ本国でチーフレジデントまで終えた若い年代の先生が多く、めちゃくちゃ教え好きの、教え上手やったんです。加えて、軍隊なのに組織全体のコミュニケーションが思いのほかフラットでした。そんな点に惹かれて就職しました」

大学の医局を離れての医師修行は、自分の師匠を自分で求めることができる自由さがある。しかしそのためには、求める師匠を探し、そこで働き、学べるように交渉し、ポストを勝ち取る力が必要だ。横須賀で最初の修行先を見つけた白井さんは、その後も「この先生に学びたい」という思いが湧くたびに、自ら積極的に応募し、ポストを得てきた。「人に会って、いいな、と思ったらすぐにアプライして……。横須賀の次の飯塚病院も、国立札幌病院(現・国立病院機構北海道がんセンター)も同じ方法です」。そのスピード感と、ある意味物怖じしない積極性が、白井さんの未来を切り開いてきたのだろう。

横須賀米海軍病院で1年間の研修を終え、キャプテンから修了証を受け取る=提供・白井敬祐さん

ディズニー先生と、横須賀海軍病院の同期の研修医ともに=提供・白井敬祐さん

真摯なコミュニケーションが救いうる ステージ4の患者の苦悩

渡米、そして腫瘍内科の専門医へ

夢だった米国留学への道もある日、突然開かれた。米国の医師免許は、京大卒業と同時に取得したが、取得後7年以内に米国内で臨床研修を始めなければ無効となる。折しも、国立札幌病院に勤務していたころ。手稲渓仁会病院とピッツバーグ大学病院内科との提携が検討され、同大学の内科研修プログラムディレクターが来日していた。当時の師匠、西尾正道・国立札幌病院放射線科医長(現・北海道がんセンター名誉院長)に、許可をとり、白井さんは早速プログラムディレクターにランチのアポイントメントを取ることに成功。「ホテルのレストランで『君、アメリカの免許持ってんの?』って聞かれて『持ってます』って言うたら、『じゃあ、うち来る?契約書送るわ』って」。ジョークのようだが、その場で渡米が決まった。もちろんバックパックの中には、履歴書など、ひと揃えを忍ばせていたそうだが。

「外で飯食ってくる」としか聞いていなかった白井さんの妻は、当然驚いた。しかも、当時白井家の子どもたちは3歳と1歳。米国での生活に不安を抱く妻を、白井さんはこう説得した。「アメリカの医師はオンとオフがはっきりしてるから、プライベートな時間もしっかり確保できるって。子育てにもいいと思うよ」

しかし、その予測は覆り、約束は反故になった。渡米後、最初のローテーション先はICU。右も左もわからない状態で4日に1回、泊まり込みの当直が回ってきた。現在の米国ではACGME(Accreditation Council for Graduate Medical Education、米国卒後臨床教育評価機構)によって研修医の労働時間が規制されているが、当時はまだルールがなかった。「今でも妻には『あの時はだまされた』と責められます。帰ってきても寝るだけで、乳飲み子抱えてアメリカで1人放り出されたようなもんですからね」と苦笑いをする。

米国で専門医資格を取るには、指定された臨床研修施設で初期研修(インターンシップ)、後期研修(レジデンシー)を受け、その上で専門医試験を受けなければならない。24の診療科別にそれぞれ専門医認定機構があり、内科の場合はAmerican Board of Internal Medicine(ABIM)がそれを担う。各認定機構の上位には、それを統括するAmerican Board of Medical Specialties(ABMS)が各診療科間の制度の標準化や評価、認定を担っている。一方、研修施設やその研修プログラムに対する評価はACGMEが担う。過去5年間の専門医試験合格率が8割を切った施設は、ACGMEから研修プログラムの改善を求められる。この指摘を受けるとプログラムの改善策を具体的に提示して合格率を上げない限り、臨床研修施設として認められなくなる。いきおい、どの施設も専門医育成に照準を定めてプログラムの質向上に努めるし、研修医の採用基準も厳しくなる。

3人の師から学んだ「笑顔の腫瘍内科」

3年間の研修を終えるころ、白井さんの中で学生時代から漠然と抱いてきた「がん医療」への志が明確なものになってきた。「現在の腫瘍内科は、多額の研究費が投じられて新しい治療法が次々登場することもあって、米国の若い医師にも人気です。でも僕が初期研修をしてたころは全然違いました。早期のがんとちがい、ステージ4であれば、治療のゴールは、治癒ではありません。そんな人と、以前はこんな患者さんもいたよ、こういう過ごし方もあるよ、あなたに合った方法を見つけましょうね、って話してると、一人ひとりとじっくり付き合えるんですよ。そこが自分の性に合ってるなあ、と思って」

渡米当初、白井さんは3年で帰国するつもりだった。しかし、米国でがんの専門医となる目標は捨てられず、腫瘍内科の専門医資格(フェローシップ)獲得を目指すことに。「妻も理解してくれて、応募書類の封筒詰めとか手伝ってくれました。オンラインでの応募はまだ始まってなかったですから、それぞれの書式に合わせてタイプして。60くらい応募して、面接に呼ばれたのは10病院くらいやったかな」。結果、サウスカロライナ医科大学血液・腫瘍内科の専門医研修への参加資格を獲得。専門医取得後もスタッフとして残り、研鑽を積んだ。

この過程でも白井さんは自分の進むべき道を照らしてくれる師匠に出会っている。研修中のピッツバーグ大学の師は、緩和医療の専門家、Paul.K.Han医師。「ハン先生が診るのは終末期の患者さんばかりなんですけど、すごいジェントルマンで、彼が頷きながら話を聞くと、患者さんも家族も落ち着いてくるんですよ。クールなのに、心を癒すことができる。僕もそんなコミュニケーションをしたいなあ、と思いました」
3年間の研修を終えるころ、白井さんの中で学生時代から漠然と抱いてきた「がん医療」への志が明確なものになってきた。「現在の腫瘍内科は、多額の研究費が投じられて新しい治療法が次々登場することもあって、米国の若い医師にも人気です。でも僕が初期研修をしてたころは全然違いました。早期のがんとちがい、ステージ4であれば、治療のゴールは、治癒ではありません。そんな人と、以前はこんな患者さんもいたよ、こういう過ごし方もあるよ、あなたに合った方法を見つけましょうね、って話してると、一人ひとりとじっくり付き合えるんですよ。そこが自分の性に合ってるなあ、と思って」

渡米当初、白井さんは3年で帰国するつもりだった。しかし、米国でがんの専門医となる目標は捨てられず、腫瘍内科の専門医資格(フェローシップ)獲得を目指すことに。「妻も理解してくれて、応募書類の封筒詰めとか手伝ってくれました。オンラインでの応募はまだ始まってなかったですから、それぞれの書式に合わせてタイプして。60くらい応募して、面接に呼ばれたのは10病院くらいやったかな」。結果、サウスカロライナ医科大学血液・腫瘍内科の専門医研修への参加資格を獲得。専門医取得後もスタッフとして残り、研鑽を積んだ。

この過程でも白井さんは自分の進むべき道を照らしてくれる師匠に出会っている。研修中のピッツバーグ大学の師は、緩和医療の専門家、Paul.K.Han医師。「ハン先生が診るのは終末期の患者さんばかりなんですけど、すごいジェントルマンで、彼が頷きながら話を聞くと、患者さんも家族も落ち着いてくるんですよ。クールなのに、心を癒すことができる。僕もそんなコミュニケーションをしたいなあ、と思いました」

生と死に臨む日常にこそ求められる“レジリエンス” 、医師自身も前向きに生きるため

「寛容であれ」「決めつけるな」

近年、分子標的薬の登場や、薬の効果や副作用を患者個人ごとに予測するコンパニオン診断の普及などで、がんの化学療法は劇的に進歩した。ノーベル賞で話題になった免疫チェックポイント阻害薬の登場もその一例だ。それに伴い、医師・患者間のコミュニケーションのあり方も少しずつ変化している。「免疫チェックポイント阻害薬によって、僕が渡米したころならばほぼコントロール不可能とされた患者さんでも、中には長期間良好な状態を保てる例が出てきました。本当に画期的な薬で医師も患者さんも期待が大きいのですが、肺がんの場合、効果があるのはそれでもまだ全体の2割です。期待が大きい分、うまくいかんかった時のサポートの仕方が新しい課題です」。実際の診療の際は「がんはコントロールできるかもしれないけど、あなたを不死身にはできませんよ」と冗談を言うこともある。効果の大きな治療法ほど、誤解を生まぬバランスの取れた説明が必要だ。

そうして患者の心情に思いをはせ、コミュニケーションに工夫をしても、時には患者や家族に負の感情をぶつけられることはある。治療が奏功しない時、あきらめきれない思いが怒りに変わり、医療従事者に向かうケースはゼロにはできない。「よかれと思ってやってもうまくいかないことは、一定の確率でありますから。患者さんや家族にきついことを言われることも時にはあります。だから腫瘍内科医にはバーンアウトが多いと言われています」

精神的な過酷さからは逃れようのない環境で、白井さんが心に留めているのは「レジリエンス(resilience)」を保つことだ。ストレスを受けた時の心身の回復力、復元力などを意味する。

現在のダートマス大学ヒッチコック・メディカルセンターでの様子。白井さんの背後のモニターには、外来の診察室のマップが描かれており、診察中の患者はもちろん、医師、看護師も胸につける青いバッジによって「今、どこにいるか」がリアルタイムで表示される。「ここ10年、白衣は着ていません」とのこと=提供・白井敬祐さん

「緩和医療のワークショップで繰り返し教えられた言葉が二つあるんです。一つは『寛容であれ』。今晩は魚が食べたいな、と思って買い物行ったら、カレーが食べたくなること、誰にでもありますよね。気持ちは刻々と変化するんです。それと同じことで、医療でも患者さんのニーズは常に変化します。『抗がん剤はやめときます』と言ってた患者さんが、お孫さんに『がんばって』と言われて『やっぱり抗がん剤治療お願いします』となることもある。直前までチームで一生懸命作ってきた治療方針が“ちゃぶ台返し”になることもあるんですよ。そんな時に『寛容であれ』と」

「もう一つは“Don’t assume”、決めつけるな、仮定するなってこと。自分のがんについて、全部知りたい人もいれば、知りたくない人もいる。さらにその人にとっての全部とは?人それぞれちがいます。確認が大事なんですね。CT撮った時、画像も見たいはず、などと決めつけたらあかん!ってこと。中には画像を見たくない患者さんもいます。何か決めるたびに必ず相手に確認、それも何回も何回も。だって今日は聞きたくないかもしれないけど、次は聞きたいかもしれんやないですか」

寛容であること、決めつけないことを日頃から実践するために必要なのは「いっぱいいっぱいにならないよう心掛けること」。それがレジリエンスを維持する方法だ。一方、自分の言い方、伝え方が原因で患者や家族との間の空気が重くなったり、すれ違っているなあと感じたりする時は「リセット」がおすすめだと言う。

「医療者は、自分の発言はいつも正しくありたいと思うあまり、『あ、今の言うたらあかんかったな……』って思っても、ついいろんな理由をつけて正当化して前に進めようとしがちです。だからアメリカでも研修医に『君ら、WiiとかPS4とかのゲームでも途中であかん!と思ったらリセットするやろ? 同じように“I’m sorry, that was not my intention.”とか、“I told you in an awkward way.”って感じで、あまりよくない言い方でしたね、もう一回、最初から説明させてください、とリセットすることをためらうな』と言ってます。この話を聞けてすごく楽になった、と言ってくれる若い医師もいます」

チームが真の「仲間」になっているか

白井さんの話すチーム医療のあり方、医師・患者間のコミュニケーション像は、同じ事象を異なる二つの切り口で語っているようだ。つらい現実と向き合うことは避けられない医療の現場、また治療のゴールも刻々と変わっていく中で、医療従事者も患者もどうすれば、誤解を避け、互いの気持ちを尊重し、前向きに生きられるのか――。そんな問いに全力で答えるように、白井さんから数々のキーワードが熱を帯びた口調で語られる。

曰く、患者にかける言葉は“WWW”を使えばたいていうまくいく……I wish(うまくいってほしいと思っているのですが)、I’m worried(あなたのことを心配してるんです)、I wonder(こんなやり方はどうでしょうか……)。患者や家族にきついことを言われたり、患者さんが亡くなって落ち込んだりしている時は、“You cannot make everybody happy.”(みんなをハッピーにできるわけじゃないよ)って、肩をたたいてくれる仲間がいることが大切――。「日本は医療従事者の雑談に厳しすぎませんか? 病棟で医師と看護師がしゃべってるだけでも、苦情が来るって聞きます。でも、気軽に話もできないスタッフがいい仕事ができるでしょうか。業務連絡だけでなく、他愛もない話をすることから人としてのコミュニケーションが始まるし、スタッフ間でそういう会話ができてこそ、患者さんに対してもいいコミュニケーションが作れると思うんですよね」

そうして得た、素晴らしいコミュニケーションの蓄積が、白井さん自身の医師人生も楽しく充実したものにしているようだ。その面白さ、やりがいを日本にも伝えたい、と帰国のたび、熱く語りかける。「実は当たり前のことしか言うてないんですよ、僕。でもアメリカからたまに帰ってくる奴が英語交えてバーッてしゃべると、意外と聞いてもらえるんです」。そう言って見せる茶目っ気たっぷりの笑顔も、聴衆を惹きつける大きな魅力の一つなのだろう。
- 1994年7月、米ミシガン大学へのアメリカンフットボール留学中の一コマ
- 1994年9月、同じくアメフト留学中のミシガン大学にて。試合前の駐車場でのテイルゲートパーティ
- 2004年、内科研修中の合間を縫って、熱狂的なファンがいることで知られるNFL(ナショナル・フットボール・リーグ)の強豪、ピッツバーグ・スティーラーズを本拠地、ハインツフィールドで。腰にはテリブルタオル。これを振り回して応援するという

1994年、同じくミシガン大学でフットボールのチームドクターに頼み手術見学

この欄の写真はいずれも白井敬祐さん提供

ダートマス大学 腫瘍内科准教授
白井敬祐先生

1997年 京都大学医学部卒業
     横須賀米海軍病院
1998年 飯塚病院
2000年 国立札幌病院(現・国立病院機構北海道がんセンター)
2002年 がん診療、緩和医療、医学教育を目的に渡米、ピッツバーグ大学関連病院で一般内科の研修を始める
2008年 サウスカロライナ医科大学血液・腫瘍内科フェローシップを経て、同大学腫瘍内科スタッフに就任
2015年 ダートマス大学腫瘍内科Associate Professor就任
     専門は肺がん、メラノーマ、緩和医療

(肩書は2018年7月取材時のものです)