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2020.03.13

埼玉県立小児医療センター 小児救命救急センター 救急診療科長 (※2018年取材時) 植田育也(うえた・いくや)先生

PICUを核にした地域連携に力を注ぐ小児集中治療医
「日本のこどもたち全ての命を等しく救う」
体制の構築を目指して

PICUを核にした地域連携に力を注ぐ小児集中治療医 「日本のこどもたち全ての命を等しく救う」 体制の構築を目指して

日本は2000年代前半まで、1~4歳の小児の死亡率が先進国の中では高いと指摘されていた。現在は大幅に改善しているものの、世界トップレベルの低値の死亡率を久しく維持している新生児の状況とは、大きく異なる。当時からその原因の1つと考えられてきたのが、重篤な小児患者を集中的に治療するPICU(小児集中治療室)の普及率の低さだ。埼玉県立小児医療センター(さいたま市)で小児救命救急センターのトップを務める植田育也さんは約20年前、医師になって4年目の時に米国に渡り、小児救命救急・集中治療のあり方を学んだ。帰国後はPICUの普及と、PICUを核にした地域連携体制の構築に尽力してきた。植田さんの努力が徐々に実を結び、日本の小児医療が変わろうとしている。

指導医の先生方は専門外の患者さんの対応に困っていました 「道が見えていないな」と感じました

ロードマップを作って進む

さいたまスーパーアリーナ、官公庁の出先機関が入る合同庁舎、高層のオフィスビルが集まる「さいたま新都心」(さいたま市中央区新都心)に埼玉県立小児医療センターはある。地下1階、地上12階建ての小児専門の総合医療施設で、重篤な疾患を持つ患者に先進的で高度な医療を提供している。

医療センター4階のPICU(小児集中治療室)で、1人の医師が患者の様子を見回っている。ある患者の胸に聴診器を当てた後、その子の顔を見ながらジッと何かを考えている。

「PICUでは、全ての処置は行き当たりばったりではなく、目の前にいる患者に、今何をしたら状態が改善するのかを見極めることが重要なんです。まずゴールを設定し、自分の中の引き出しに詰まっている、これまで診てきた患者さん一人一人の経験データベースから類似のケースの『地図』を探し出します。それを基にロードマップを作って、後はその道をひたすら進むんです」。同センター小児救命救急センター救急診療科長の植田育也さん。小児救命救急・集中治療の第一人者だ。
植田さんが思い描くロードマップは、目の前の患者のものだけにとどまらない。日本の小児救命救急・集中治療のあり方に関して設定したゴールがある。ロードマップの段階は一歩一歩進んでおり、救われるこどもの命が着実に増えている。

普及が遅れた日本のPICU

PICUは0〜15歳までの小児を対象にした集中治療室だ。生まれてすぐの新生児が対象のNICUや成人のICUと同様、呼吸や循環、中枢神経、代謝など生命維持に関わる重要な臓器の障害に対して、集中的に管理とケアを行う。

PICUは1950年代に北欧で誕生し、その後、米国で発展した。小児の重症患者をPICUに集約し、そこで治療に当たる専門家(小児集中治療医)を配置して管理とケアを行ったところ、治療成績が向上したのがきっかけだ。

日本では90年代にPICUが登場したが、院内で手術を受けた患者や入院患者のための「箱」としての機能が主だった。小児救命救急・集中治療を専門にする医師はおらず、各科の小児科医が試行錯誤しながら処置を行っていた。専門家のいる本格的なPICUが日本で増えてきたのは2000年代に入ってからだ。植田さんはPICUを国内に広めた立役者の一人として知られている。

きちんとしたPICUが普及していなかった00年代前半までは、日本における1~4歳の死亡率は世界20位台の水準で、先進国の中で最悪のレベルだった。現在、日本を含めた先進国では、00年代前半までと比べて1~4歳の死亡率が3~5割減少した。数値は大きく改善しているのだが、順位をみると、実は日本は今も変わらず世界20位台のままだ。

植田さんは「まだまだ改善途上」と考えている。

渡米を決意。送った200通の手紙

植田さんはPICUと小児救命救急・集中治療についての知識やスキルを米国で学んだ。渡米を決意したのは、卒業後に大学病院で小児科の研修医として働いていた時に、当時の日本の小児救命救急・集中治療のあり方に疑問を抱いたためだ。

「大学病院には3次救急の患者さんがたくさんやってきます。指導医の先生方は自身の専門についてのスキルは完璧なのですが、専門外の患者さんの対応には困っていました。失礼ながら、診療していて『道が見えていないな』と研修医として不安を感じることがたびたびあったのです。考えてみれば、指導医の先生方は小児救命救急・集中治療の専門家ではありませんから当然のことなのです。それが当時の日本の状況でした」

米国で研修を受けることを決めたが、米国内から優秀な医師たちが集まってくる中で、そう簡単に受け入れ先が見つかるはずはない。そこで、小児医療の研修プログラムを実施している米国の病院のリストを入手し、片端から抱負を記した手紙(カバーレター)と履歴書を送った。その数は約200通。

「当時は印字の機器といえばタイプライターしかなかったので、手紙を書き始めたころは手紙を1通ずつ打っていかなくてはならなかったんです。それは大変でしたよ。途中でワープロが発売されてだいぶ楽になりましたが」。植田さんは、笑いながら当時を振り返る。

シンシナティ小児病院から「採用通知」

約200通の手紙を送り、「面接可」の返事が届いたのはわずか3施設。渡米して各施設の面接を受け、そのうちの1施設から「採用通知」をもらうことができた。オハイオ州にあるシンシナティ小児病院だ。小児科医になって4年目に家族と共に米国に渡った。

現在、シンシナティ小児病院といえば世界有数の小児病院として知られている。しかし当時は、小児救命救急・集中治療の研修制度に実績があったわけでなく、植田さんが採用されたのが自院で研修制度を開始した最初の年だった。そのため、「外国人でも何とか潜り込めた」のだという。

4年間の研修で、植田さんは本場の小児救命救急・集中治療のノウハウを身に着けていく。

日本のこどもたちはけっこう良くない目に 遭っているのではないかと危機感を覚えました

小児救命救急・集中治療における日米の格差

米国の小児救命救急・集中治療は、日本と比較にならないほど進んでいた。

小児救命救急・集中治療という分野が小児循環器や小児神経などと同列にサブスペシャリティとして確立され、専門医もいた。そして、チーム医療を徹底している点も日本の医療との大きな違いだった。日本のように主治医が一人で患者を診て、周囲は口を出さないというやり方とは真逆だ。

重症の患者はPICUに入れ、気道や呼吸や循環のことを集中治療医が診ながら、主治医と共同して治療を行う。それぞれの専門知識を生かして一人の命を救うという医療が当たり前のように行われていた。

EBMも集約化も実践されていた米国

科学的根拠に基づいた医療(EBM:evidence based medicine)も既に実践されていた。指導医たちからは常に「そのやり方ではダメだ。こうやってみろ。論文にもこう書いてあるから」と根拠が提示された。日本で行ってきた方法とは違うことが多く、初めは半信半疑だった。しかし、指示通りにやると必ず患者の状態が良くなった。繰り返し教えられるうち、「自分の『手癖』ではなく、ちゃんと論文を読んで、そこで結果が出ている治療をすることが患者のためになることを実感しました」。

日本では今ようやく、成人も含めた医療の中に、チーム医療とEBMが定着してきた段階だ。主治医が自分の思った通りに一人で進める医療から、ガイドラインに沿い、医療安全に配慮し、チームで行う医療へ。主治医は家族に対応する窓口としての機能を持ち、バックでは各分野の専門家の医師がチームになって高度医療を展開することが一般的になってきた。

また、患者の集約化も徹底されていた。地方の病院で重篤になり、一般の救急外来で対応できないこどもが医療用ヘリコプターでPICUにどんどん運ばれてくる。この体制により、患者の救命率が上がる。日本では、いわゆるドクターヘリの導入など影も形もないころのことだ。

小児科医になった理由は「開発途上国のこどもを救いたい」

米国での研修が4年目に入ったころ、植田さんはその先の道として、日本へ戻ることを決意する。

実は、植田さんはずっと、開発途上国のこどもを救う医師になることを目標にしてきた。将来のことを漠然と考えていた高校生の時、なんとなくテレビを見ていた植田さんの目に飛び込んできたのが、アフリカで飢餓に苦しむこどもの映像だった。顔に何匹ものハエが止まっているのに、それを振り払う力すらないやせ細ったこども。その映像を見て、「自分は何不自由なく暮らしているのに、この違いは何なんだ。小児科医になって開発途上国であの子たちを助けよう」と思い立ったのだ。

それ以降はずっとその目標に向けて進んできた。医学部に進学すると、海外で医師として従事するために英語を身につけようと、教科書は全て英語で書かれたものを購入。日本語で講義を聞いて、それを英語に直して理解するという勉強法を続けた。そして、在学中に米国医師国家試験(USMLE)にも合格した。

「まずは日本のこどもたちを救う」

しかし、米国での研修が植田さんの志を大きく変えた。「米国の目線で日本を見ると、日本は小児救命救急・集中治療の体制ができていない。そのせいで、日本のこどもたちはけっこう良くない目に遭っているのではないかと危機感を覚えました。開発途上国のこどもたちを助ける前に、まずは日本のこどもたちを救わなければならないと思い始めたのです」

植田さんは、小児救急の診療科を持っていたり、重症の小児患者を多く診ていたりする日本の病院を探して再び手紙を書いた。自分は米国のPICUで小児集中治療医の研修を受けて専門医になったこと、日本で同様のPICUの開設に携わりたいこと――。今度は米国から日本へ、思いを込めて30通ほど手紙を送った。
- シンシナティ小児病院PICUの研修医仲間と。中央が植田さん=植田さん提供
- シンシナティ小児病院PICUで研修中の植田さん(左)と恩師=植田さん提供

まずは主治医と丁寧に話し合おう 少しでも私たちの専門性を理解してもらうように努めよう

長野県立こども病院でPICU開設

送り先の1つ、長野県立こども病院から返事が来た。

長野県の中部、わさびやそばの産地で知られる安曇野市に位置する病院だ。地域医療の拠点となっている同病院は、全国でもまれな本格的なPICU開設の計画を立てていた。この実現に向けて協力を依頼されたのだ。植田さんは快諾した。

帰国した植田さんは1998年、同病院の新生児科の医師として従事しながら、PICU開設の準備にとりかかった。2001年、植田さんを含め計4人の小児集中治療医によって、PICUがスタートした。

もちろん、最初から順風満帆とはいかなかった。新しい事を始める場合の常として、周囲からの反発は大きく、理解を得るのに苦労した。当初のPICUは院内の患者を診ることが中心だった。状態が悪化し集中治療が必要な患者を各科の主治医がPICUに連れてくる。しかし、彼らは患者を植田さんたち小児集中治療医に任せようとはしなかった。従来の日本のスタイルで、主治医が患者を囲って一人で治療を始めてしまうのだ。

植田さんらが、「その方法では良くないと思います。こうやった方が……」と指摘しても、「そんなことはない。こちらが正しい」と言って耳を貸してくれない。しかし、小児集中治療医たちも譲れない。最後は「そのやり方では救命できません。専門分野は私たちに任せてください」と強く言い返す。どちらが患者を引き受けるか、どちらのやり方が正しいかを巡って、小児集中治療医と主治医はしょっちゅう怒鳴り合いのけんかをしていたという。

1年かけて得た信頼関係

そのような日々が続く中で、植田さんはふと冷静になって考えた。「患者さんに良くなってほしいと思っているのは、どちらも同じ。怒鳴り合うのではなく、まずは主治医と丁寧に話し合おう。少しでも私たちの専門性を理解してもらうように努めよう」

そうしているうちに、植田さんらの思いが通じ始め、「じゃあ、この処置はそちらに頼むよ」と言ってくる主治医が現れ始めた。植田さんたちの治療で患者が回復するのを目にし、主治医は小児集中治療医の技量を認めるようになった。同じことが繰り返され、次第に感謝の言葉を言われる機会も増えた。

「信頼を得るまで1年間かかりました。でも、このプロセスを経て、他科との連携だけでなくPICUのスタッフの連帯感が深まり、チーム医療も熟成されていきました」

県全土の医療機関と連携

次に植田さんが取り組んだのが、PICUと地域の病院やクリニックとの連携だった。長野県全土の医療機関と連携し、集中治療の必要な小児患者を長野県立こども病院のPICUで引き受ける計画だ。

長野県は南北約212キロメートル、東西約120キロメートルで、全国4番目の面積を持つ。山に囲まれた地形で、点在する盆地に人が住み、そこに医療圏が形成されている。長野県中部にある県立こども病院からは車で片道2時間ぐらいかかる場所もある。

PICU開設前の3年間、植田さんは新生児科の医師として、重症の赤ちゃんの集約化に取り組んでいた。県内各地の医療圏で重症の赤ちゃんが生まれると、保育器を積んだドクターカーに乗り込んで現地に赴き、その場で救命処置を施す。その後、ドクターカーに患者を乗せて県立こども病院まで連れて帰る。地域の医療機関でも診られる程度にまで回復したら、再度ドクターカーで送り届けるのだ。

当時、スタッフの中で一番若かった植田さんは、ドクターカーによるほぼ全ての搬送に出動していた。そのことで県内各地のさまざまな医療機関の医師と信頼関係が築けていた。

「『これからは赤ちゃんだけでなく、もっと大きなこどもたちも重症になったら、同じように迎えに来て引き受けます』と伝えて回ったら、スムーズに進みました。そして、それが長野県内のシステムとして広まったんです」

約5年が経過し、PICUにおける集中治療と集約化が軌道に乗った頃、植田さんは静岡県立こども病院(静岡市)からPICUの開設を依頼される。

静岡県立こども病院へ

静岡県立こども病院に赴任した植田さんは、すぐにPICUを中心とした地域連携に向けて動き始める。

なじみのない土地で、顔見知りの医師も全くいない。そこで、まず、県内の病院の小児科や救命救急センター全てにPICU開設を知らせる手紙を送った。その上で、PICU直通電話「ホットライン」の番号をラミネート加工したものを持参し、あいさつに出向いた。

「重い患者さんがいたら、こちらにご連絡ください」と頭を下げて回った。反応はさまざまで、「なんで来たの? うちでやっているから、そんなのいらないよ」とそっけない対応をされることもあれば、「それはいいですね。ぜひお願いします」と喜んでもらえることもあった。

ドクターヘリを持つ2病院と連携

静岡県の小児救命救急・集中治療の体制を大きく前進させたのは、ドクターヘリを導入していた聖隷三方原病院(浜松市)と順天堂大医学部附属静岡病院(伊豆の国市)との連携だった。どちらの病院も多くの重症患者が集まる。しかし、小さなこどもの状態が悪くなった時に、「このままここで診療し続けていいのか」と悩みながらも、適切な搬送先がないためにどうすることもできず、非常に困っていたというのだ。

初めて聖隷三方原病院の救命救急センターにあいさつに訪れた日のことを、植田さんは今でもよく覚えている。腕利きの救急医から厳しい対応をされるかもしれないと不安を抱え緊張していたが、いざ行ってみると、救命救急センターのトップ3人が和やかに迎えてくれた。「よく来たね、待っていたんだよ。協力するから、どんどん引き受けてほしい」と連携を約束してくれた。

静岡県立こども病院は、県西部に位置する聖隷三方原病院と県東部に位置する順天堂大学医学部附属静岡病院の中間にある。

連携を開始すると、県の東西から患者がドクターヘリで次々と搬送されてきた。こうして、ドクターヘリを活用した小児救命救急・集中治療の地域連携のモデルケースが、静岡県でできあがった。

救えなかったこどものことは悲しみとなって、 心のコップの中に澱のようにたまっていきます

埼玉県立小児医療センターへ

そして、植田さんは2015年に現在の病院へ移った。埼玉県は人口当たりの小児科医の数が全国最低で、小児救命救急・集中治療の整備が課題になっていた。小児医療センターが2016年12月に、さいたま市岩槻区から現在の地に移転する際、その解決策の一つとして小児救命救急センターを新設することになった。その開設準備から開設後の運営までの全権を任せるリーダーとして、植田さんが招かれたのだ。

約2年間の準備期間を経てスタートした小児救命救急センターは現在、救急診療科、集中治療科、外傷診療科が連携し、24時間体制で重症の小児患者を受け入れている。2019年度には、PICUとHCU(準集中治療室)を合わせ、のべ2000人超が入室。救急車の受け入れは約2000台に上った。

全国17施設に広がった「本格的な」PICU

帰国してから約20年。植田さんがまいた種がようやく芽吹き始めている。

PICUを完備し地域連携に取り組む病院は、全国に計17施設(2018年現在)にまで広がった。しかし現状では、まだ、小児人口の2分の1~3分の2しかカバーできていない計算だ。地域によっては、まだまだ集中治療の必要なこどもの受け入れ先がなく、一般病棟で診ているところもある。主治医が転院させようとしても、電話をしては断られ、電話をしては断られ、なんとか大学病院などの集中治療室に収容してもらうということを繰り返しているところもある。

植田さんは「都市部だから恵まれていて、地方だからダメだという話ではありません。長野県はしっかりとした体制が確立されて20年もたちます。こういった所は、地域の医療行政、大学の教授、小児病院や救命救急に関わる医師たちが知恵を出し合って、体制を作り上げ、守っているのです」と指摘する。そして、「この医療格差をなんとか解消したい。小児人口の100%をカバーする体制を作らなければならないと思っています」と自身が思い描く小児集治療に関するロードマップのゴールを語る。

時には救えない命も……

もちろん、小児救命救急・集中治療の場での勤務は、悲しいことばかりではない。

植田さんの元には、PICUで状態が改善し、一般病棟に移ったこどもたちが時折、元気な姿を見せにやってくる。PICUの入口で「ピンポーン」とインターホンを鳴らす。退院の時には感謝の手紙をくれることもある。

この仕事をやっていて良かったと思う瞬間だ。

元気な姿を見せに来てくれるこどもたち

小児救命救急・集中治療の場では「こどもが好きで、命を失いそうになっているこどもを救いたい」というスタッフが、日々必死になって診療に当たっている。時には救えない命もある。小児救命救急センターでは、毎年30人ほどが亡くなる。命を救おうと苦闘を続けたスタッフの悲しみは深い。

このような時、植田さんは看護師も含めた医療スタッフのカンファレンスを行う。患者が亡くなったつらさを言葉に出したり、我慢せずに泣いたりしてもらうことで、グリーフ(死別による悲しみ)が少しでも昇華できるように。

植田さん自身は、どのように心の整理をしているのだろうか。

「整理はつきません。自分のケアまではなかなか……。救えなかったこどものことは悲しみとなって、心のコップの中に澱(おり)のようにたまっていきます。コップの容量がどのくらいあるか分かりません。下から抜けることもあるのかもしれませんが、澱があふれて、受け止められなくなったら引退だと思っています」