40年の手術室生活から在宅医療の現場へ 生と死の狭間、「正解のない世界」で 医師は何を目指すのか
80歳にして、自ら軽自動車のハンドルを握り、今も週2、3回の往診を続ける訪問診療医、小堀鷗一郎さん。母方の祖父は、明治の日本を代表する文豪で、医師でもあった森鷗外だ。そして小堀さん自身は、東京大学医学部出身の外科医であり、国立国際医療センター(現・国立国際医療研究センター)院長として定年を迎えるまで、そして定年後も手術室でメスを握ってきた。ところがある日、全くの偶然からまるで勝手の違う在宅医療の世界へ身を転じる。以来14年余り、400人近くの患者を看取ってきた。「引退」すら考えてもおかしくない年齢で、あえて選んだ最後の職場は、なぜ「在宅」だったのか。半世紀以上にわたって人間の「生と死」を見続けた小堀さんの選択はどうして生まれたのだろう――。
外科医定年後 予期せず踏み込んだ世界は……
名誉院長は森鷗外の孫 今日も軽自動車駆り往診へ
埼玉県新座市。東京・池袋から電車で約20分、再開発が進む駅から車で農地と宅地の間を縫う道を10分ほど進むと、堀ノ内病院に着く。地域医療の中核を担う199床の総合病院だ。24時間体制で救急患者も受け入れている。小堀鷗一郎さんの現在の所属先は、この病院の地域医療センターだ。病院のウェブサイトには「名誉院長」と記載されているが、名刺にはそんな肩書きは記されていない。
2018年夏、小堀さんを200日にわたって追いかけたドキュメンタリー番組がテレビで放送された。慣れた様子で患者の家に上がり、持参した折りたたみ椅子に腰をおろしてベッドに横たわる患者に話しかける。「また来るね」と手を握る。介護で疲弊する家族の悩みを聞く。全盲の娘が1人で父親の介護を担う家には、何かと理由を見つけては診療外でも様子を見に行く。患者の家から家へは、軽の四輪駆動車のハンドルを自ら握って移動する。そして、それぞれの家で患者の最期を見届ける……。
番組の公式サイトには、「老老医療」という言葉があった。歩くのも、話すのも、運転するのも、老いを感じさせない小堀さんを目にすると、「ちょっと失礼な表現では……」という気もするが、実は小堀さんは1938年生まれ、本稿の取材時点で満80歳。確かに年齢的には「老老」と称しても間違いはないかもしれない。
「なんて恐ろしいことをやる世界なんだ」
さらに驚かされるのは小堀さんの経歴だ。
東京大学医学部を卒業後、東大病院第1外科で食道がんを専門とする外科医としてキャリアを積んだ。助教授まで務め、1993年に国立国際医療センター病院の外科部長に転任。65歳で定年退職する前の3年あまりは病院長も務めた。堀ノ内病院に来たのは退職後で、しかも当初は「手術を続けたくて来た」と言う。
「今のように在宅医療を担当することになったのは自らの意思ではなく、全くの偶然です。私はもう一度外科医として現場に戻りたくて、ここに来たのでね」
堀ノ内病院に着任した当初は、毎月数例の手術を手掛け、外来では救急の当番医も担当していた。逆に訪問診療、在宅医療という領域には、触れたことすらなかった。180度の転換をもたらす出来事は、着任から2年ほどがたった2005年2月に起きた。退職する小児科医に依頼され、その医師が長年、往診をしていた寝たきりの患者2名を引き継いで、初めて訪問診療をすることになったのだ。
「最初に訪問した時、座敷に患者さんが寝ている状態で処置をすることにとても驚きました。気管カニューレの交換など、外科医としては到底信じられないほど無造作に行われてましてね。交換時に痰が詰まって窒息するリスクがあるんじゃないか、と。『なんて恐ろしいことをやる分野だろう』と思ったのが正直なところです」
「患者の顔を見ても、その人生を考えていなかった」
実地の経験がゼロの状態から、必死で取り組むこと2カ月。小堀さんの往診を依頼する患者や家族が増え始めた。「私自身も手術を続けることが体力的に難しくなり、徐々にこの領域に専念することになりました」。それに伴い受け持つ患者数は増え、4年後には40人を超えた。当時は、在宅医療の黎明期とでも言うべき時期だ。介護保険制度が2000年4月に創設されたものの、診療報酬の面でも今のような環境は整っておらず、訪問診療を実施している医療機関はまだ少なかった。患者の急増は、在宅医療に対する需要に供給が追い付いていなかったという理由もあるだろう。しかしそれ以上に、小堀さんの患者や家族に対する姿勢が地域に浸透し、評判を呼んだ。
このころの小堀さんの取り組みは、2018年5月に刊行された小堀さん自身の著書「死を生きた人々 訪問診療医と355人の患者」(みすず書房)に詳しく紹介されている。
脳梗塞を患い、つえにすがって室内を歩くのがせいいっぱいなのに、どうしてもたばこが吸いたいと言う72歳の患者を退院させ、たばこの自動販売機に1人で歩いて行けるようになるまで、見守り続けたケース。胃がんが再発したが、お酒が大好きな76歳男性の病床に、個人的に訪問し、男性の孫の誕生を祝って、ウイスキーで乾杯したケース――。患者や家族の人生に深く入り込み、単なる医療の提供だけでない関係を築いて、一緒に生き方、死に方を考え、紡いでいく。いくつもの事例を読み進めると、「なぜ、ここまで深いかかわりができるのか?」という疑問がわく。
「僕は外科医時代、職人的な方向に走りすぎるようなところがあったんです。患者がどんな生涯を過ごしてきたか、何を考えているか、どういう死に方をしたいのか、そういうことを全然、考えてこなかった。患者の顔を見ても『この人の食道はどうなっているのか』を考えたりしてね。こうしたことに対する反省があるのです。そして、言い方は悪いけれど、それまでかかわってこなかった分、患者の人生に興味がある。それがモチベーションになっているのです」
今の姿からは思いもつかない話に驚かされる。しかし本当にそのような動機があるのだとすれば、その土台となった若き日の小堀さんの姿を知りたくなる。話の舞台は一気に終戦直後まで飛んだ。
浪人、留年……エリートドクターの意外な半生
同級生との運命的な出会いから医師を志す
小堀さんの母は森鷗外の次女で、随筆家として活躍した小堀杏奴(あんぬ)。父は画家の小堀四郎だ。鷗外は陸軍の軍医総監まで務めた医師だった。当然、小堀さんの人生の選択にも、鷗外の影響があったのではないか、と思ってしまう。
「よく聞かれることですが、医者になったことと、森鷗外の存在は全く関係ありません。確かに自宅には『鷗外全集』があり、子どものころからよく読んでいました。しかし私の父親は画家、母親は文筆家。将来に関して、医者と言う選択肢を示唆されたことは一度もありません。親はむしろ、僕を自分たちの仕事である絵描きか文筆家にしたかったのではないかと思います」
岐路は中学時代に訪れた。友人、塚原己成(つかはら・きせい)さんとの出会いだ。後にも先にも「人生の大きな転機はこの出会いだけ」と小堀さんは断言する。それほど運命的だった。
当時、小堀さんは成城学園中学校(東京都世田谷区)に通っていた。「塚原君のご両親はともに医師でした。塚原君は幼稚園から成城学園に在籍していて、小学校から入学した私とは中学校で初めて同じクラスになりました。当時の成城学園はとても自由な校風で、試験もなければ宿題も通信簿もなく、大学までエスカレーター式。非常にのんびりした環境だったのですが、そんな中でも彼は自宅できちんと勉強を教えられていたのでしょう。中学の時には独自に仏教の研究をしたり、『無の境地とは』という論文を書いたりと天才肌で、我々同級生の教科書とでも言うべき存在でした。そんな彼に中学3年生の時に呼び出されました。卒業間近だったと思います。そして『君は将来、何になるのか』と聞かれました」
大学まで内部進学ができる学校にいて、進路について家族で話したこともまだなく、小堀さん自身考えたこともなかった。「そう答えると、彼は厳かに『自分は医者になる。医者ほど尊い仕事ない』と滔々と述べ、結論として僕に『君も医者になるべきだ』と言ったのです」
折しも、小堀さんは父親に連れて行かれた講演会で、結核治療薬ストレプトマイシンの発見者でノーベル賞受賞者、セルマン・ワックスマン博士の話を聞いた直後だった。強い印象を残した博士の講演にも後押しされ、小堀さんは成城学園を退学してしまう。
「規格外に劣悪な成績」で落第続く
「親にもほとんど相談なく辞めてしまったんですよ。当時、医学部に進学するためには、都立高校の進学校から受験するのが既定路線だったので、塚原君は『成城にいたら医者になれない。都立高校に行かなければ』と。僕の親はよく言えば放任主義、見方を変えれば自分たちの世界に没頭していたので、子どもが何になろうが、あまり興味はなかったのでしょうが、さすがに非常に驚いたと思います。つまり僕は、塚原君に出会わなければ医者になっていない。それは確かです」
ただ、当時の小堀少年は「ひたすら遊びとサッカーに熱中していて、全く勉強をしていなかった」。“放任”の両親に代わり、都立高校受験の段取りは塚原さんの両親が代行してくれた。「彼のお母様が、僕の親の代わりに成城学園中学の担任の先生に面談に行ってくれたんですが、僕の規格外に劣悪な成績に驚かれてね。難関校の都立戸山高校、新宿高校を目指したかったが、それは避けて、ほかの都立3校を受験したんだけど、それも全部落ちてしまった。そこで塚原君の父方のご親族が校長をされていた私立高校に入れてもらいました。当時は都立高校に編入試験がありまして、その私立高校に通いながら戸山高校への編入を目指すことになったわけです」
「元が規格外に低い学力ですから、それからもそれはそれは、大変な思いをしました。最初の高校入学後も、塚原君のご両親が家庭教師を世話してくれて、特訓を受けたのですが、高校1年夏の編入試験はまた落第。結局、2回目の編入試験でやっと合格し、高校2年生から戸山高校への入学が叶いました」
しかし苦労はこれで終わりではなかった。当時は学制改革後の過渡期で、医学部・歯学部進学過程は今とは違い、理学部などの理系学部を2年修了した者の中からさらに選抜された者だけが医学部に進むことができた。東大でも理科三類の設置は1962年まで待たねばならず、医学部志望者は通常まず理科二類に入り、2年修了時に医学部試験を受けて合格しなければならない。3回の試験を経て戸山高校に入った小堀さんは、さらに2年浪人をして理科二類に合格。「なのに教養学部1年の時はまたサッカーに夢中になり、入学と同時に『東京大学ア式蹴球部』に春合宿から参加してしまいました。当時、東大は長らく関東大学1部リーグの強豪だったんですが、僕が入る2年前に2部に転落してましてね。部一丸となって1部復帰を目指していたころです。中学の対抗試合で顔を合わせた部員が何人もいて、それは楽しかった。これがたたって学業成績は理科二類の400名中363番。2年夏の合宿直前、主将から『このままでは東大の1部復帰も、小堀の医学部進学もあぶはち取らずになる』と退部を勧められ、サッカーを辞めました」
結局、2年次を終えた後の医学部入学試験にも落ち、予備校の医学部受験コースに1年通い、ようやく合格できた。「教養学部に入るのに2年、医学部に入るのに1年、都合3年遅れているのです。まともに行けば昭和37年卒だったのが、それが40年卒になりました。そういう意味では知人、友人のレンジが広い」と笑う。エリートそのものといった感の、後の小堀さんのキャリアからは想像できない学歴だが、“寄り道”の多さは、自ら独立独歩で切り開いてきた道のりであることの裏返しなのだろう。
治療が難しいから選んだスペシャリティ
1986年から89年ごろ、東京大学医学部第1外科で食道の手術に臨む小堀さん(中央)。外科医時代、仕事中の写真はほとんどなく、摘出した臓器の写真を撮るために手術室に入っていたカメラマンが撮影したこの1枚が、残っているほぼ唯一のものだという=小堀さん提供
医学部卒業後、入局した東大第1外科(石川浩一教授)では悪性腫瘍、消化管、血管、肝臓などの専門外来が開かれ、いくつかの研究グループが作られていた。小堀さんが選んだのは悪性腫瘍のチーム。食道がんを中心に胃がん、乳がんを専門にしていた。
「当時は専門を複数持つべしと言われていました。その後、特に食道がんに力を入れるようになったんですが、それは死亡率が高く、治療が難しいがんだったからです。以来、特に困難な手術や他の医師があきらめた患者の手術を引き受けて、いかに予後をよくするか、ということに傾注していました」。当時、食道がんの患者は手術後30日以上生存させることができれば医師の不名誉ではなくなる、と言われるほど、治療が難しかった。「必然的に外科医同士の競争も激しかったですね。僕は負けず嫌いだからライバル医師の手術を見学に行くこともよくありました」
一方で「僕は、犬猫と子供と若い人が苦手。学生の教育にもあまり興味がありません」と言う。助教授としての講義も「やりたい人はたくさんいたから、代わってもらいました。僕はその間に手術がしたかったから」。時折、「先生に素晴らしい手技を教わりました」と後輩に言われることもあるが、「教えたつもりはないし、教える気もないし、若い人に期待する気もないし、僕の跡を継いでほしいとも思わない」から、さらりと流してしまう。だが、そういう職人気質が、腕一本をたのみとする外科医には憧れを抱かせるのかもしれない。
小堀さんの「手術第一」の生活は延々と続き、国立国際医療センターの病院長時代も新病棟構想に注力しつつ、年に数回は手術場に立った。それだけ現場が好きだった。そんな小堀さんが退職後に選んだ職場は、大学時代からの親友で医局でも同期生であった小島武さんが院長を務める堀ノ内病院だった。今思えば、それが新たな、そして予期せぬ人生のスタートラインだった。
試行錯誤を繰り返し、患者・家族を謙虚に支える
在宅看取り率75%以上 でも臨終には立ち会わない
話を現在に戻そう。
小堀さんは「在宅での看取り」が多い。前述の著書によれば、在宅医療に取り組み始めて13年後の時点で、臨終にかかわった患者は355人。このうち自宅での死亡者数(在宅看取り数)が271人、病院が84人。約4分の3を在宅で看取っている。
「在宅医療を始めたころは、僕自身に経験がないので、急変時に救急搬送をするか、自宅で看取るかという判断は、ほとんど本人と家族の意向に従っていました。結果、3年目までは在宅死と入院死がほぼ同数でした。ところが、あることがきっかけで、患者や家族の意向に全面的に従うことが必ずしも患者本人の最期の希望を代弁することにはならないと確信しました。以来、私の看取りに対する方針を、患者、家族に話すようにしたのです。そうし始めた2008年を境に、入院死と在宅死の数が逆転し、次第に在宅死が増え始めました」
その“きっかけ”とは、長男夫婦と暮らす101歳の女性患者の看取りだった。ある日、突然ベッドに上がることができなくなり、小堀さんが訪問診療を依頼された。女性は食事量が低下し、3日目に目を覚まさなくなった。当初は在宅で看取る方針だったが、女性が息を吐くときに発するかすかな息づかいを、長男が「母がかわいそうで耐えられない」と、急きょ入院を要請し、堀ノ内病院に救急搬送した。
入院後は中心静脈栄養による栄養管理を行い、併発した肺炎に対して気管切開をし、人工呼吸器を装着した。女性は命を長らえたが、家族は入院の約1カ月後から見舞いに来なくなった。女性は集中治療室で10カ月あまり独り生き続け、その死は宿直の看護師によって確認された。
もう一つ、末期の膵臓がんだった80代女性の例もある。肝臓に転移が見つかり、入院。小堀さんは病状を見て、息子の理解を得てから「自宅に戻って夫婦2人の時間を過ごしてはどうか」と提案した。しかし女性は「こんなにだるいのに、家に帰っても主人のごはんを作れません。元気になってから帰ります」と退院を断った。そして1週間後に亡くなった。
「それぞれ、患者さんが迎えることができたはずの死と、現実に迎えることになった死の差を強く感じます。誰もが自宅で亡くなった時代のように、死を身近に体験できる時代ではないですし、個人の死の受け止め方が異なるのも当然ですが、患者さんや家族の意向はしばしば医学的根拠を無視し、誤解を含んでいます。膵臓がんの患者さんのように、死期が近いのにそのことを自覚しないまま亡くなる人も珍しくありません」
今、小堀さんは、やがて訪れる死について患者や家族に早い時期から説明をすることで、現実を受け入れてもらう土台作りをしている。死が近づくと起こる体の変化や、胃瘻や点滴による栄養補給のデメリットも話す。患者はその話から現実を少しずつ受け入れ、残された時間の過ごし方を考えていく。
そんなかかわりをしながら、小堀さんは患者の臨終には基本的に立ち会わない。「看取るのは家族だから」だ。「患者の死に至る過程に医師がかかわらなくてよい、という意味じゃありません。医師は患者の死に至る過程に常にかかわり、最後の瞬間は“席を外す”ということです。看取りは患者と家族の大事な時間ですから。死ぬ時に医者はいらない」。死が間際にある患者の家族には、夜間に息を引き取っても電話はしてこなくていい、と伝える。「僕を呼ぶより、翌朝まで手を握っていてあげる方がいい。朝、電話をくれたら行って死亡診断書を書くから、と」
「人間、負けを知らないと人生を完結させたとは言えない」
もちろん、在宅での看取りがベストとは限らず、病院で最期を迎える方がいいこともある。どちらがいいか、ではなく、患者や家族が最後の希望を叶えられるように力を尽くしたい、と小堀さんは言う。「でも現実にはいい形で死を迎えられる例はごく一部ですよ。家に帰してあげたいと思っても、家族が許さない、気兼ねして帰れないなど、あらゆる状況がありますから」
定年までの外科医としてのキャリアと比較して、こうも言う。「東大や国立国際医療センターは、個々の医師の力が優先で、手術は結果、つまり勝ち負けが明確で、勝ちもあれば負けもある。僕自身、他の医者の手術の失敗をリカバーしたとか、合併症をこれくらいの率に抑えられたとか、まずまずの結果、勝ちを残せたとは思う。しかし、在宅医療の世界では、医者だからと、感謝されることもほとんどないし、尊敬もされない。よかれと思ってやってもなんでそんなことをするのかと、家族から激怒されることもある。そして皆、亡くなっていく。この世界では僕は負けてばかり。常に『負け戦』なんですよ。でも人は皆、そうして死んでいくわけで、死と向き合うのが医者の使命、宿命であるなら、在宅医療、訪問診療の世界を知らなければ、医者の仕事を全うしたとは言えないんじゃないか」
また一つの例を挙げてくれた。「同僚である若い医師の素晴らしい緩和ケアで、希望がかなって帰宅した終末期の女性が予想以上に元気になり、彼女の高齢の旦那さんは妻のために、毎晩一生懸命夕食を作った。1カ月後、旦那さんが過労で倒れ、奥さんは結局、病院に戻って亡くなった。『ごはんなんてどうでもいいよ』と言っても旦那さんは聞かなくて。最後は『俺はもうダメだ』と精根尽きてしまいました」
現代の在宅医療に緩和ケアの知識、技術は必須だ。でも現実には、優れたケアが結果的に患者の希望を摘むことすらある。「正解のない世界」での試行錯誤を小堀さんは「負け」と表現するのだろうか。ただその言葉からは、敗者の悲哀や悔しさより、謙虚に患者と家族を支える優しさがにじみ出る。
「負けるのは好きではないけれど、人間、勝ちばかりで負けを知らないままでは、人生を全うしたとも言えないんじゃないか。この世界で13年間以上やってきたことは、僕自身にとっても意味があると思っています」
止められぬ流れに流される最後の日々を共に過ごしたい
2015年2月、77歳の時に出場した第49回青梅マラソンにて=小堀さん提供
2006年、在宅療養支援診療所制度が創設され、多くの診療所が訪問診療を手掛けるようになった。しかし仕組みが整うほど、現場は効率化が進み、個々の患者に合わせて付き合い方を変える小堀さんのようなやり方は難しくなる面もある。
「制度ができ、在宅医療をビジネスチャンスととらえる医師もいます。そうした人は私たちのやり方には踏み込んできません。看取りは医師にとってもきついですから。精神的にも、肉体的にも。それに口幅ったい言い方ですが、正解がないからこそ、医師の人間力がものを言う世界です。人生経験も必要で、僕が患者と一緒に酒を飲む、などというつきあい方ができたのも、この年齢になっていたからで、同じことを若い医師に望むのは無理があります。だから、効率化が進むことも仕方がない面がありますね」
そして最後にこう言葉を重ねた。「僕は若い人に自分のやり方を継いでほしいという気持ちが、残念ながらないのですよ。ほら、犬猫と子供と若者が苦手だからね」
ニヤリと笑う小堀さんを見ると、その言葉は虚実相半ばするものではないか、と思う。1人で走り始めた堀ノ内病院の訪問診療も、今は5人体制だ。小堀さんが望むと望まざるとにかかわらず、その背中を見る若い医師はいる。
小堀さんの著書の最終ページは、次のように結ばれている。
――「死を怖れず、死にあこがれずに」だれにもとどめることができない流れに流されてゆく患者と、その一人一人に心を寄せつつ最後の日々をともに過ごす医師、そのような患者と医師の関係があってもよいのではないか。それは私の見果てぬ夢でもある――
その夢は、小堀さん自身からも離れて、次の世代の誰かに引き継がれていくのだろう。
小堀鷗一郎先生
1938年 東京都生まれ
1965年 東京大学医学部卒業
東京大学医学部附属病院第一外科
1993年 国立国際医療センター(現・国立国際医療研究センター)外科部長
2000年 同センター病院長に就任
2003年 同センター病院長を定年退職、堀ノ内病院へ
これまで一貫して、上部消化管の診療、研究に従事
2005年 堀ノ内病院で訪問診療を開始
(肩書は2018年7月取材時のものです)