行動し、思索し、実践する医師の、 生きる悦びと診る喜びに包まれた、時間と空間。
田上佑輔氏と盟友であり、大学の同級生である安井佑氏が、卒後8年目で東京大学附属病院(以下、東大病院)を飛び出し開設した医療法人社団やまと やまと在宅診療所(以下、やまと診療所)は、宮城県登米市と首都圏(東京都板橋区、神奈川県横浜市、川崎市)で在宅医療を展開し、双方の拠点に若手医師が行き来する動線の確立を目指している。「医師がつくり出し、提言し、社会の仕組みそのものに貢献できるはず」――そんな前向きな可能性へのチャレンジが、日々続いている。
片道3時間半を毎週移動する在宅診療医
仕事をするからには、それは、やりがいに満ち、充実を感じられる時間であってほしい。健やかに願いをいだき、必要な努力をする。見定めたプロセスを疑わずに前に進み、困難にくじけないがんばりを通せたら、人はかなりの幸福を掴めるはずだ。成果の大小はあるだろうが、自分が納得できれば、思い切って成功を宣言していいかもしれない。
毎週必ず登米市(宮城県)から東京へ、東京から登米市へと移動を繰り返しながら医療を展開する田上佑輔氏の姿はテレビでも何度も紹介された。片道3時間半。移動した先には、日に何軒もの患者宅を訪問する診療のスケジュールが待っている。
冷静に考えれば、ハードと言うには十分すぎるほど、負荷に溢れたライフスタイルだ。だが、あの表情を見てしまうとなぜか湧いてくる感情は同情ではなく羨望に近い。うがった目で観察すればもちろん疲れも見てとれるが、それ以上に充実感が発散されているからだ。人がそこにいるだけで発するあれやこれやは、まことに不思議で奥が深い。
田上氏がこの生活に入る直接のきっかけは、2011年の東日本大震災。
「多くの人がそうであったように、私も、矢も盾もたまらず、とにかく何か手助けがしたくて被災地に入り、ボランティアに従事しました。医師免許を持っているので、医療でも貢献できるかもしれないと想像していましたが、それは完全に的外れ。行政や医療機関から十分な数の医療者が現地に入っていましたし、生き延びた方々のほとんどは怪我も疾病もない元気な状態でしたから。
医師として駆け回る必要がなかったせいでしょうか、思索はじっくりとまとめることができました。得られた結論は、『この地域には、できるだけ長くかかわるべきだ』でした」
これは、自分たちの世代の有事だ。長く考え、かかわらなければならない。
大枠を、こうとらえた。
「これは、私たちの世代の有事だと思いました。大変なことが起こったのは見ての通りで、しかも大変さは今後、10年、20年を優に超えるスパンで続く。忘れてはならない。
職業に関係なく、多くの若者ができるだけ長く、何度もこの土地を訪れてほしい。訪問が一度で終わった人であっても、ここでの経験を持ち帰り、温め、どこかに生かしていくべきだ。そんな、世代の使命を感じました」
使命ある世代のひとりであり、医師である自分は何をすべきかと考えを進めていった。東大病院腫瘍外科に勤務するかたわら、空いた時間を見つけては定期的に被災地に入った。
結果、2年後には東大病院を休職し、やまと診療所を開設していた。
やまと診療所は、志を共有する東京大学医学部同期の医師/安井佑氏と出資を折半し、登米市と東京都(板橋区)に同時に診療所を開設してスタートした。田上氏が登米市に、安井氏が東京に在住し、定期的に2人が入れ替わりながら在宅医療を展開していった。
「このスタイルが何を目指しているかというと、これまでにない、閉ざされない医療のモデルです。2つの拠点で、それぞれの地域で在宅医療を提供し続けることはもちろん重要ですが、もうひとつ、私たちの構想の重要なポイントは東京と登米市の間に医師の動き、交流の動線が確保され、維持されることです。
登米市での医療従事がすなわち登米市に居続けなければいけないことを意味する状況では、担い手候補には決死の覚悟が求められる。決死の思いで着任しても、その担い手がダウンしたり、ギブアップしたりすれば、次の担い手が現れるまで、またもや医療過疎になってしまう。その繰り返しでは、だめだと思いました」
開設から3年を経た2016年現在、登米市には常勤医も駐在するようになり、田上氏と安井氏の他にも数人の医師が東京と登米市の間を行き来するようになった。東京都板橋区の診療所に続き、神奈川県横浜市の日吉、同じく川崎市の武蔵小杉にも診療所が誕生。何人もの医師が、短期的に登米市を訪れるようになった。仙台の医療機関からも、医師がやってくるようになった。
市民病院の一角に土地と建物を有しての活動
登米市のやまと診療所は、登米市立登米市民病院(以下、登米市民病院)の敷地内、駐車場の一角に施設を有し活動している。つまり、市と市民病院のバックアップを得ている。
「取り組むからには一番困っている土地で始めるべきだろうと思い、宮城県庁に電話し、質問しました。そこで得られた案内が、『それならば、登米市です』でした。調べてみると登米市は医療過疎地ですが、伝統的な稲作地帯で、土地に根づいた住民もいるし、文化もある。行政と市民が危機感を共有して、今後どうすべきかを真剣に考えている地域であることなども、新しい医療への取り組みには適していると思えました。
すぐに登米市民病院の院長に面会を求め、『こういう医療がしたいのです』、『よし、わかった』となりました」
誤解されがちな点がひとつある。これは、へき地医療ではないということだ。
「私たちの取り組みは、へき地医療ではありません。その分野は、他の専門家にお任せしているつもりです。
私たちは、登米市のような人口8万人規模のコミュニティが、東京などの都市とつながり、医師のUターン、Iターンの流れをつくることでいかに地域医療を支えるかにチャレンジしているのです」
ITを活用し、住民参加も促す「地域医療2.0@登米」
田上氏は、ある講演会で自らの取り組みを「地域医療2.0@登米」と表現してみせた。Webが双方向のコミュニケーションで各段の進歩を見せた様子になぞらえて、ITを活用した医療、住民参加型の地域医療をそう表現した。
地域医療に取り組んだ医師の多くは、取り組みの結果、地域とのつながりを無視しては医療が成立しないことを理解するものだが、田上氏の構想には当初からその視点があったようだ。
たとえば2015年には、登米市の診療所から200mほど離れた商業地区にスペースを賃貸しコミュニティカフェ「coFFee doctors」をオープンさせた。
「地域医療に必要な多職種連携のネットワークを目指した勉強会(オープンメディカルコミュニティ<OMC>)を開催するうち、さまざまな人が常時交流できる場の必要性を感じ、このカフェの開設を考えました。
現在は、そういったイベントのほかに、毎週火曜日に医療相談の窓口も開設しています。もちろんお茶や食事だけを求めるお客様にとっては、普通のちょっとおしゃれなカフェと思っていただいていいお店です。
このスペースを利用したイベントは時とともに多彩になっています。カフェに来場してイベントに参加できない住民のために、ケアマネジャーや薬剤師がカフェで開催しているイベントを公民館などで開催する『出張カフェ』という活動も始まっています」
カフェと同じ「coFFee doctors」という名を持つWebサイトも開設し、医師による健康、医療、介護に関する情報発信も行っている。
地域医療を通して、ソーシャルデザインにも参加する
登米市に若い医師が継続的に訪れ、医療に参加する。その流れを生み出すために必要な大きな魅力のひとつとして、教育が考えられる。ここでしか得られない学び、経験。田上氏はそのプログラムづくりにも注力する。
やまと診療所が登米市立米谷病院、登米市民病院、石巻赤十字病院と連携して構築した「登米全員参加型家庭医育成プログラム『やまとプロジェクト』」は、日本プライマリ・ケア連合学会認定の家庭医療後期研修プログラムとして2016年4月から稼働している。現在は、東北大学コンダクター型総合診療医要請プログラムとのコラボレーションも進めている。
「臨床経験はもちろんですが、コミュニティとの密接な関係を持った医療を通してソーシャルデザインを学ぶこともできる。そういった、登米市ならではの医療の魅力を、研修プログラムとして構築して行きたいと考えています」
「医療を通してソーシャルデザインにまで参加する」は、すでに実践が始まっている。2015年4月から、やまと診療所は登米市の行政アドバイザーの任を得ているのだ。
「地域行政の再構築のための同市の委員会に参加し、さまざまな取り組みに意見を求められています。現在は、計画の入り口での、事業仕分けに参加しています」
これからの医師には、新しい仕組みを生み出す考えがあってもいい
精力的な活動の力の源はどこにあるのか、行動原理はいつできあがったのか。
「私は、熊本県出身。地方に生まれ育った若者がそうであるように、私も、大学を目指していたころには漠然と『東京でがんばってみたい』、『日本で一番の何かになりたい』程度の考えを持っていました。
医師免許を取得し、外科医の修練を積んでいた時代には目の前の患者さんを助けることの重要性を肌で感じました。しかしそれ以上に日本の医療制度、特に地域医療に関する仕組みがうまくいっていないことが気になるようになっていた。『日本のために、もっと何かできるのではないか』と考えるようになっていました」
決して、医師の仕事を否定するわけではない。田上氏は「これからの医師には、これまでとは違う新しい可能性があるはず」と模索したのだ。
「医師という職業は、仕事の大部分が整えられた医療制度の中で『与えられた仕事』です。それはそれで社会的意義があり守るべきことでしょうが、たとえばその部分を80%として、残り20%の余力では何かをつくりあげる努力をしてもいいのではないか。
新しい何かを生み出し、それを別の何かと組み合わせ、社会に資する仕組みに育てて行く。医師にも、そういったタイプの社会貢献ができるのではないかと考えるようになったのです」
そして、ここでも登米市でのそれを彷彿とさせるような行動力を見せた。そういった考えを医療界はもとより経済界、ベンチャービジネス界の先達にまでぶつけていったのだ。
「初期臨床研修を終えたころに、頭の中にあった疑問をいろいろな人へ投げかけました。まったく面識のない企業経営者に、いきなりメールを送ったこともあります。すると、驚くことに、時代をつくってきたような社会的な地位のある人に限って、会ってくれるんです。こんな若造に!
多くの方が私の言葉に耳を傾けてくださり、理解を示してくださり、ときには厳しい意見もくださいました。とても励まされました。
登米市で活動を始めた直接のきっかけは東日本大震災でしたが、在宅医療で地域医療に貢献するビジョンは、すでにこのときにできあがっていました」
登米での診療風景。医師と看護師、事務スタッフが3名1組となって訪問し、多い日には7軒、8軒と訪問する。
40歳での評価を待っている。その先にあるものは……
当然のことだが、やまと診療所を立ち上げてのここまでは試行錯誤の連続だったという。ただ、試行錯誤しているとは思えないほどのスピードで、施策を次々とかたちにしている。田上氏は今、活動に1)臨床、2)研究、3)教育、4)ビジネス、5)行政(政治)の5つの軸を設定し、常にそのバランスの中で前進の構想を練っているという。
「前進するにあたって大事なのは、『当たり前のことを当たり前にするには』という視点で活動を進めることだと思います。5つの軸はそれを検証するための軸であると同時に、前進の方法論を検証するための軸でもあります。
医療にとって臨床、研究、教育は外すことのできない大きな柱ですが、在宅医療を通して地域医療に貢献し、ひいては地域社会の構築にまで医師が貢献するには、ビジネスのスキルと行政の仕組み、時には政治機構への理解もなくてはなりません」
マイルストーンは、5年おきに設定しているとのこと。
「30歳でこの構想を持ち、35歳の時には走り始めていました。自分が正しいと信じることに従って動いたわけですが、40歳になったときには一度立ち止まり、それが社会に受け入れられているか否かを検証するつもりです」
田上氏の行動力、実践力に目を見張らない者はいないだろう。ただ、この人物の本当の凄さは構想力なのだ。「診る」だけでも十分に魅力的な医師の人生に、社会貢献の新しいスタイルをつくりだす意欲でさらに大きな悦びを示そうとしている。共感する医師、後を追う医師が続々と登場する次の時代がしっかりとイメージできる。
田上 佑輔先生
2005年3月 東京大学医学部卒
4月 国保旭中央病院(初期研修医)
2007年4月 東京大学附属病院
2013年4月 医療法人社団やまと やまと在宅診療所開設
(2015年7月取材)