icon-sns-youtube icon-sns-facebook icon-sns-twitter icon-sns-instagram icon-sns-line icon-sns-tiktok icon-sns-etc
SEARCH

2017.03.31

わざクリニック 院長 松戸市医師会顧問 和座 一弘先生

黎明期の試行錯誤がもたらした、豊かな実り。
和座一弘なるプライマリケア医のこと。

黎明期の試行錯誤がもたらした、豊かな実り。 和座一弘なるプライマリケア医のこと。

2004年に初期臨床研修が必修化され、総合的な臨床力の大切さが改めて見直された。この前後にプライマリケア医や総合診療医への人気が一気に高まったのも時代の趨勢といえるだろう。では、2004年以前に卒後研修を受けた医師は、その世代全員がプライマリケアの臨床力に劣るのだろうか。そんなことはあるはずがないと、証明してみせるのが和座一弘氏。制度が整う以前の混沌の時代に、試行錯誤を厭わず学んだ世代が、いかに力強い能力を身につけたのかを教えてくれる人物だ。

「都会でこそ生きるプライマリケア」を証明するために

千葉県松戸市、JR常磐線馬橋駅から徒歩1分のビルにある「わざクリニック」は、小児科、内科、胃腸科を専門とするクリニック。クリニックのホームページには、5つのモットーとして「近接性」「責任性」「協調性」「継続性」「総合性」が謳われており、同じページには「外来診療以外に往診、訪問診療(在宅での治療)をご希望の場合も遠慮なくご相談ください」と、別のページには「いつでも留守電にメッセージを残してください」とも記されている。どうやら、地域に寄り添い、間口の広い医療を展開しているようだ。

実際に足を運んでみると、1月下旬の平日午後6時過ぎの同院待合室は、多数の患者がソファーを埋めていた。地域から信頼され、頼られていることが一目でわかる風景だった。
2001年開設。院長は、プライマリ・ケア学会認定指導医の和座一弘氏。プライマリケアの世界では、かなり名の知れた人物である。そんな和座氏が、この地に開業した動機はいかに。
「プライマリケア医や総合診療医を『へき地でこそ生きる医師』と考える向きがありますが、私の中には『いや、違う』との思いがあった。その考えを証明してみたい気持ちが松戸市での開業を後押ししたのかもしれません。開業に至った原動力の大部分は、実はただの『勢い』なのですが(笑)、『都会でこそ生きるプライマリケア』を証明したい気持ちは強くありました」
独自の考えを証明することはできたのだろうか。
「開設半年で経営が軌道に乗ったことで、証明できたのではないでしょうか」
勝因は?
「子供から老人までトータルに診られる医師へのニーズは、都会にもへき地にも同様にあるのです。私は以前、専門医のひしめく都会では、プライマリケア医や総合診療医が出る幕はないという意味の指摘を受けたことがあります。でも、それは絶対に違うと思いました。

たとえば、私のところに病を得たお子さんが受診した際、お子さんへのケアで疲れ過ぎ、体調を崩しかけているお母さんのことも気遣ってあげられますし、診断、治療をして差し上げられます。
そういった、私たちの強みである総合力は、都会の医療においてもしっかりと生きると信じていました」
都会でのプライマリケアで、心がけるべきことは?
「へき地で活動するならすべてをひとりで完遂する覚悟を持つが、都会では腕のある専門医とはネットワークを組み、適宜紹介できるような柔軟な思考を持っているべきでしょう。都会では、コーディネータとしての役割も意識して活動すれば、患者さんによりよい医療が提供できると思います」

開業しなければ得られなかった学び。地区医師会の存在意義。

開業して14年目の2015年には、任期4年の松戸市医師会会長も任された。
「大変光栄に思っていますし、仕事に熱中してもいます。開業して以降、私がもっとも大きく学んだことが地区医師会の重要性のような気がします。

たとえば前述したプライマリケア医のコーディネータとしての機能ですが、紹介先である専門医の質に不安があっては患者利益につながりません。それを担保するのは、医師会以外にないでしょう。
また、松戸市には夜間小児急病センターという独自の診療体制が稼働しています。これは松戸市の小児開業医が発案したものですが、場所の提供と人材のサポートを市立病院から引き出し、12年にもわたって維持できているのは、間に立って必要な調整を果たした松戸市医師会の功績です。

昨今、巷間で語られることが増えた『都会での地域医療はどうあるべきか』は、松戸市ではひとつの形として実現しています。そして、その地域医療の成否は、地区の医師会の働きがかなりの役割を担っているのだと実感しているところです」

私たちはつい、国を動かそうとする。その前にすべきことがある。

地区医師会について「学んだこと」とは、いったい何だろう。
「私も勤務医時代には、他聞に漏れず、医師会を『ただの利益誘導団体だろう』と色眼鏡でみるところがありました。しかし、開業して会員になってみると、考えが改まりました。会員のみなさんが手弁当で会議に足を運んでいらっしゃいます。また、開業医同士のよりよいネットワーク作りに努力し、最終的にはそれを患者利益につなげようと真摯に取り組まれていたのです」
それだけではない。

2016年度
医師会理事旅行・兼六園にて

「政策提言についてもそうです。私たちはつい、改めるべきだと感じたことを実現するために国を動かそうと考えがちです。しかし、国会などは、そうたやすく耳を傾けてくれるものではありません。
それに比べ、地方自治体は、医療制度に関しては地区医師会から発せられる声をないがしろにはしません。『地方自治体が大事な補助金交付先と認識しているのは、消防署と地区医師会だけだ』という言葉があるのをご存じですか? そういった存在を具有する地区医師会からの医療政策に関する提言には、当然ですが担当者はしっかりと耳を傾けてくれます。とくに松戸市の医師会は、的を射た政策案を次々に送り出す俊英ぞろい。もちろん行政担当者は、一つひとつしっかりと内容を吟味して判断をくだしている。自治体と医師会の関係はきわめて良好といえるでしょう。

そういった中で、医師会会員約400名の代表、あるいは総意として提出した医療政策が着々と実現していくようすを見れば、誰もがやりがいを感じると思うのです。
全国の医師会が総力を挙げれば、地域医療の問題はかなり改善されていくこととおもいます」

完全なる少数派だったが、仲間もいた。総合医、家庭医に憧れた医学生時代

957年生まれ。1985年、新潟大学医学部卒業。
なんと、医学部在籍時代からすでに、総合医、家庭医に興味を持っていたとのこと。臓器別専門科の流れが加速していた時代に、トレンドとはまったく別の方向を向いていたわけだ。
「もちろん少数派ですが、仲間もいました。皆、卒業後には新潟大学医局に残らず、それぞれ独力で進路を見つけて旅立っていきました。たとえば、現在、千葉県の旭中央病院で循環器内科主任部長を務めている神田順二君などはそのひとりです」

1984年頃
新潟大学時代、日野原重明先生を迎えて

在学中に忘れられない思い出がある。
「医学部のイベントで、僕の仲間たちの発案で、すでに高名だった日野原重明先生を招聘して講演会をやろうとなった。私が担当者に指名され、恐る恐る電話してみると、ご本人が電話口で『引き受けますよ。交通費を出してくれれば、いきますよ』と2つ返事をくださいました。(予算は確保していたので、講演料は無理を言って受け取っていただいた)先生は当時70歳代だったと思います。
講演は期待を裏切らなかった。「プライマリケア」なる言葉を初めて聞きました。『21世紀は病院医療から地域医療になるはず。ダイナミックにプライマリケアの重要性が増していくだろう』とのお話に、私も、仲間も、意を強くしたものです」

初期臨床研修の手探り版。教わる側にも教える側にも確固たる自信のない時代

卒業すると、粛々と自分の道を歩み始める。和座氏が選んだのは、1981年からの歴史を持ちながらその年、1985年が記念すべき研修生受け入れ初年度であった自治医科大学地域医療学講座(現地域医療学センター)だった。

結論から述べると、これ以降、和座氏が進む道のりは、言うなれば現行の初期臨床研修制度の手探り版である。教わる側には当然だが、教える方にも確固たる自信がない。プライマリケア医に関していえば、まったくもってそんな時代だったのである。
「講座に入ってはみたものの、ちゃんとしたカリキュラムができあがっておらず、指導医からは『とりあえず内科に行ってみてくれ』と指示されました。
指示に従って内科で勉強していると、講座によく顔を見せていた自治医科大学1期生の吉新(よしあら)通康先生から声をかけられました。『山梨県の都留というところで、地域医療をやることになった。ついて来ないか?』と」
一度は辞退したそうだ。

「『卒後2年目で、何もできません!』と申し上げました。ところが、返事は『それがいいんだよ』。
いったいどんな仕事が待っているのかと大変不安でしたが、結局お誘いを受けることにしました。1年いました。とても楽しく、有意義でした。
吉新先生が手取り足取り教えてくださるのは当然なのですが、先生が所用で留守にする毎週末には、『和座をひとりにしてはいけない』とばかりに、自治医科大学1期生の先輩方がローテーションを組んでやってきたのです。その中にはたとえば、梶井英治先生、箕輪良行先生などもいらっしゃいました。錚々たるメンバーが、入れ替わり立ち替わり、私にマンツーマン教育を施すために足を運んでくださいました」
初期臨床研修に相当する日々を、結局5年過ごしたという。強い興味を持っていた小児科は、3年目に五十嵐正紘氏という泰斗(その道で最も権威のある人)の下で3カ月を濃密に過ごしながら学んだ。救命救急では、メッカたる沖縄県立中部病院に派遣された。

2000年頃
恩師・五十嵐先生、グラハム先生との食事会(地域医療教育の仲間とともに)

その時間がいかに豊穣であったかは、言葉がなくても和座氏の表情を見ればわかる。地域医療への情熱を等しくする指導医が、先輩が、講座1期生の和座氏を「手塩にかけた」感がひしひしと伝わってくるからだ。
「今でも鮮烈に憶えているのは、五十嵐先生の下を去る日の送別会でのこと。厳しかった先生から最後のお小言をいただくのかと覚悟していた場面で、先生から『和座君ありがとう。私は、あなたに教えることで、多くのことを学ばせてもらいました』という言葉をいただいたのです。

学ぶことの奥深さ、指導することの奥深さを同時に教えていただけたのだと思います。
以来、ここまで。たった今も、今後も。五十嵐先生が、私の唯一のロールモデルとなりました。『ああなりたい』という気持ちひとつで、努力を続けています」

プロトタイプは、なぜあんなにも魅力的なのだろう

たとえばスポーツカー、たとえばゴルフクラブといった、性能が人気を左右する工業製品の世界では、時として「プロトタイプ」と呼ばれる先行モデルが市場に投入されることがある。機能や性能のコンセプトが間違っていないかを確かめ、バグの類いを丹念に潰してから、本格的にカットオーバーする手順だ。

和座氏の研修体験を聞きながら思ったのが、そのプロトタイプのイメージだ。まだ用語さえ固まっていない時代に、暗中模索を覚悟でプライマリケアを学ぼうと決心した勇気。教える側にも、その勇気に応えねばという超一級の緊張感がみなぎっている。黎明期ならではの混沌にのみ同居する特別な感慨といったところか。

できあがった作品は、混沌の中を自分の意志で、自分の判断で歩いたが故に鍛えられた足腰の強靱さがあればこそ、「プライマリケア=地域医療=へき地医療」というステレオタイプに陥ることもない。医師会の存在意義も、ニュートラルに評価できる。もはや「大量生産ではない」というスペックを超えて、一品ものの煌めきに近い。

たったひと言、心の底からのアドバイスは「ロールモデルを持つことが肝要」

傑作プロトタイプ本人に、プライマリケアの現在への感想を聞いてみると。
「初期臨床研修制度が整い、この分野に興味を持つ若手が着実に増え、とても喜ばしい流れを感じます。30年前に日野原先生がおっしゃっていたことが、実現しつつあるのですね」
屈託なく次世代の台頭を歓迎する姿は、揺るがぬ自信さえ感じさせる。事実、この魅力的なプライマリケア医のもとには多くの若手が教えを請いに足を運ぶ。そして、まったく衒いなく請う者に教えを授けている。大学から学生を、医療機関からは研修医、見学者を定期的に受け入れ続けているのだ。

「当院で学ぼうという方々には、常に同じひと言を送っています。それは、『現場に足を運べ』、そして『ロールモデルを探せ』です。私は、五十嵐先生というロールモデルに出会えた幸運があって、一人前になれた医師だと自認していますので、心の底からの最上のアドバイスはそれになります」
最後に、今後の夢、方針を聞いてみた。
「治療の成否ももちろん大事ですが、治療以外の部分でも地域のみなさんの幸福に関われるような存在になっていけたらと願っています。子育て支援に興味を持っているのも、自治体との間で医療政策について協議するのも、そんな考えがあってのことです。

そしてひとりでも多くの患者さんと、1年でも長いお付き合いを続け、この地域で一緒に年を取っていけたらいいなと思う今日この頃です」

わざクリニック 院長
松戸市医師会顧問
和座 一弘先生

1985年   新潟大学医学部卒業
1987年   自治医科大学地域医療学教室入局
1996年   ケース・ウエスタン・リザーブ大学(米国)に留学
2000年   ケース・ウエスタン・リザーブ大学家庭医療学臨床助教授
2001年4月  わざクリニック開院
2005年4月  東京医科歯科大学臨床教授
2014年5月  松戸市医師会長

(2017年01月取材)