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2017.06.19

薩摩川内市下甑手打診療所 院長 (※2017年取材時) Dr.コトー/瀬戸上健二郎先生

良い時代に地域医療に取り組み、
良い時代に次の世代に引き継げる。
とても大きな幸福感をいだいています。

良い時代に地域医療に取り組み、 良い時代に次の世代に引き継げる。 とても大きな幸福感をいだいています。

離島医療を描いた人気コミック『Dr.コトー診療所』(山田貴敏・作)の主人公のモデルとして広く名前を知られた瀬戸上健二郎氏は、展開した医療で地域(鹿児島県下甑<しもこしき>島)の安心と安全を守ったのみならず、モデルケースを示すことで、結果的に国民に離島医療への問題提起を果たしたことでも評価されるべき人物だ。
2017年3月、そんな瀬戸上氏が39年の長きにわたった同島での診療所勤務に幕を引いた。島を離れる3月末日には、島民総出による送別会が挙行されたとのこと。
一時代を築き、感謝の声と賞賛の声を集めた名医に、区切りを迎えた心の内を語っていただいた。

登るべき山が現れてしまったので、登らないわけにはいかなかった。

瀬戸上氏が赴任した1978年は、鹿児島本土から甑島・長浜港まで船で6時間ほどかかっていたが、今は高速船で1時間半前後。

――『Dr.コトー』は、開業準備のために、行政と「半年間だけ」と約束して下甑島に着任したというのは、今となっては有名な逸話です。

瀬戸上 1978年のことですね。800坪の建設用地が取得済みで、医院の設計図もできあがっていましたよ(笑)

――勤務期間更新の手続きは、一度もなかったとか。

瀬戸上 そうですね。いつ辞めてもいいという状況のまま、結局39年やり続けることになりました。村役場の担当者には、「いつ逃げ出すかわかりませんよ」と憎まれ口を叩きつつの39年間でした。

――そうなった、要因は?

瀬戸上 おもしろかった。楽しかった。それで、抜け出せなくなったわけです。

――「抜け出せなくなった」というのは、地域への愛着ということでしょうか。

瀬戸上 そういうことでしょうね。この地での時間を振り返ると、前半は仕事中心の日々。必要とあれば、住民の方々とは距離をとってでも仕事を前に進めることを優先させました。
一転して、後半は、住民のひとりとしてどんどん地域に溶け込んでいきました。地域文化を共有する仲間として受け入れてもらい、ともに暮らし、必要なところで医師としての役割を果たす日々でした。
前半には前半の充実感がありましたし、後半には後半の楽しさがあった。総括すれば、まったく悔いなし。といったところでしょうか。

――先生は当時すでに、外科医としての名声も得て、順風満帆な中で開業計画を進めていたはずです。それを投げ捨ててもよいと思えるような医療の現場だったのですね。

瀬戸上 もちろん、葛藤もありました。「来年こそは辞めなければ」という思いが頭を巡っていた時期もあった。
しかし、それを上回ったのは、「目の前に山があれば登りたくなる」気持ちです。明らかに医療に飢えている島民、村民に確かな医療を提供することで返ってくる反応は、文字どおり「医師冥利に尽きる」ものでした。業務に関しても、治療の成績を上げる点に目星がつくと、次には施設・設備の不備に目が行く、地域医療連携体制構築の必要性に気づくといった具合に、次から次に「登るべき山」が現れたんですね。

――ただ、投げ捨てたものも大きかったのでは?

瀬戸上 登るべき山に出会ってしまったのだから仕方ないのですが、「いわゆる、出世はなくなるな」とは思いました。それはそれでかまわんだろうと取り組んでいたら、ある時期から取材されたり、誉められたりするようになって、「こんなこともあるんだな」と驚いたものです(笑)。

薩摩川内市下甑手打診療所
(さつませんだいししもこしきてうちしんりょうしょ)

薩摩川内市下甑手打診療所からの眺め。

「昭和の外科」が長持ちしたという自己分析。遠隔医療を牽引しながら、他人事のように成果に驚く。

「血圧、合格や~!」という瀬戸上氏に、うれしそうに頭をさげる患者さん。

「血圧、合格や~!」という瀬戸上氏に、うれしそうに頭をさげる患者さん。
――瀬戸上先生の業績を考えるときに、先生が一流の外科医であるという点は見逃せません。当時の外科医療の常識に照らせば、専門家からも異論が出かねない、離島診療所での高度な手術を実施した。全身麻酔による肺がん手術などを次々に成功させ、周囲を驚かせながら納得させ、賛同させていった力量には感服するばかりです。

瀬戸上 外科医の自負、技術への自信は確かに大きな支えになりました。あえて踏み込んで吐露するなら、私のプライドは離島医である以前に、外科医としての立ち位置にあります。
情熱をもって取り組み修練した腕を、患者さんのために活かしたい。街で開業しても活きたでしょうが、離島の現場でもとてもよく活きた。地域医療の担い手としての達成感はたしかにえもいわれぬ魅力がありますし、私の中にもありますが、中核に外科医としての成就感があるのが特徴といえるかもしれません。

――それまで、本土の大病院に行かなければならなかった手術を地元で受けて、治してもらえる。住民の立場になれば、神の降臨にも等しい出来事だったのではないでしょうか。瀬戸上先生への信頼、診療所への信頼が日に日に強くなっていったのが目に見えます。
瀬戸上 幸いだったのは、それまでの修練で蓄積したものがかなり長持ちしたことではないでしょうか。私が学んだ昭和40~50年代の外科技術は、基本をしっかりと身につければ外傷から、がん摘出にまで通用しました。ひとりの外科医の手技でできることの幅がとても広く、それはまさに離島診療所に打ってつけだったわけです。私はそれを、「昭和の外科」と呼んでいますが、明らかに時代遅れとなったのは、つい先日のことです。
勉強に関しては可能な限り努力しましたが、現在のような情報環境も研修環境もない時代でしたから技術のアップデートは万全であったとは決していえません。にもかかわらず、着任以前にがんばって蓄えた財産が、約40年通用したのは時代の幸運だったのでしょう。

――「昭和の外科」などと謙遜なさいますが、下甑島で遠隔医療のノウハウを進化させたのは瀬戸上先生のお仕事です。見事に最先端技術を牽引なさった。

瀬戸上 時代といえば、遠隔医療の黎明から円熟の時代に立ち会えたのは意義深かったですね。CT画像をデータ送信すること自体が難事業だったところから、デジタル技術、ネット環境の進展とともに日進月歩の進化がありました。
鹿児島大学病院との間でスムーズなやりとりができるようになってみると、その存在意義は抜群でした。「放射線科の医師をひとり、確保できたようなものだな」と感慨に耽ったものです。彼らの読影技術でいくつもの命が救えたと感じています。

漫画『Dr.コトー診療所』の作者・山田貴敏氏の直筆イラストの飾られている待合室(写真左)、木製の『Dr.コトー』室名プレートがかけられていた院長室(写真右)。

行政も医療の現場も向いている方向は一緒。力を合わせるのに、特段の努力は不要。

島民が心を添えて届けてくれるわら草履で365日往診へ向かう――。

――時代の幸運とご自身の努力で技術が長持ちする中で、先生は行政とも住民とも良好な関係を築き上げ、一体となって医療の質の向上を果たしました。訳知り顔で申せば、その業績こそが唯一無二の金字塔なのではないでしょうか。設備、制度、そして、行政と医療の現場の協力関係について「下甑島に学べ」という声は、医療界に一種のムーブメントを生みました。

瀬戸上 行政も医療の現場も、向いている方向は一緒ですよ。ただ一点、「患者さんのために」。ですから、難しいことは特段ないと思っています。

――地域医療をテーマに議論したとき、現場の医師が行政の考えや手法に疑問を感じ、矛盾を感じ、燃え尽きていく問題が語られます。

瀬戸上 医師の側の努力不足について、もう少し考えてみてもいいのでは? 取り返しのつかないような決定的な軋轢は、そうそう生まれるはずはないというのが私の実感値です。

――瀬戸上先生は、行政との軋轢は皆無だったのですか?

瀬戸上 喧嘩は数え切れないほど、しましたよ。村長とだって丁々発止とやりあいました。でも、最後は「医療をよくしよう」、「福祉を向上させよう」という思いでひとつになれるわけで、そのために必要な議論や衝突を怖がったことなどありません。最終的には味方ですし、仲間なのですから。たとえば、診療所へのCT導入などは、医師の要望ではありませんでした。こちらから要望を出す前に、行政側から「そろそろ必要でしょう」と発案があってのことです。もちろん、それは住民のためになりましたし、行政と医療の現場が一体になった上での業績のひとつです。

――そんな、行政との信頼関係も下甑村が市町村合併で薩摩川内市となり、医療政策が大きく変わる可能性が出てきました。長浜と手打の2診療所で展開されている医療を、ひとつの病院に統合するという案も出ているとか。

瀬戸上 署名運動なども起こりましたね。ただ、その点は、医療の現場からは見守るしかありませんし、そうすべきではないでしょうか。最後は、住民が決めることです。住民のみなさんが望むかたちに、喜ぶかたちに動いていくことを願っています。

初期研修医を労働力と考えるのが間違っている。ちゃんと学んで帰ってもらいたい。

全国各地だけでなく、海外からも研修医が訪れる。

全国各地だけでなく、海外からも研修医が訪れる。
――瀬戸上先生が在任した39年間で、下甑島は研修医がこぞって学びにやってくる場所にもなりました。

瀬戸上 時間とともに、やる気があり、底力のある若者が集まってくれるようになりましたね。とくに2004年の初期臨床研修必修化以降、その動きが顕著になったように思います。あれは、とても良い制度改革でした。自分の身に照らしても、こんな学びの仕組みがあったらどんなに良かっただろうと感じます。現代の新卒医師は、とても恵まれていると感じます。

――とはいえ、不人気な医療機関にはまったく研修医は集まらないようです。秘訣のようなものはあるのですか?

瀬戸上 初期研修医をただの労働力としか見ない医療機関がいまだにあると耳にします。たとえば、そんなところに人は集まるはずはありません。皆、学びたくて研修に参加するわけですからね。
私が心がけてきたのは、「思い切り学んでもらおう」という点だけです。当たり前のことですが、当たり前を実践するのが難しいこともあるのでしょうか。幸いにして初期研修医の間で評価され、毎年たくさんの若者が集まってくれるのはとても喜ばしいことと思っています。

――養成し、輩出するのも医師としての醍醐味のひとつかもしれませんね。

瀬戸上 それに関しては、大上段の考えはありません。私としてはむしろ、研修医の皆さんから良い刺激をいただけた感の方が強いかもしれません。教育の仕組みについて語る時に総じて指摘されることですが、指導する側も始動することで多くを学ぶものです。私も、若手医師たちと接することで、多くを学ばせてもらったと感じています。

――地域医療の今後について、どんな見通しをお持ちですか?

瀬戸上 未来は、明るいのではないでしょうか。新しい研修制度があり、志のある若者がたくさんいる。みなさん才能もあるし、学び方も上手い。次の世代の皆さんが、どんな地域医療をつくっていくのか楽しみでなりません。

――診療所を退任して以降のご予定は。

瀬戸上 しばらく、休みます。その間に次の構想を練りたいですね。まだまだやりたいことも、できることもあると思っています。

瀬戸上氏のオペで回復した患者さんにプレゼントされた船の絵画。
「これほど素晴らしい画を私は見たことがない」。

「こんな最高の笑顔見たことありますか?」
数分のオペで目が開くようになり喜ぶ患者さんの笑顔をスナップ。

瀬戸上先生への思いと思い出――齋藤 学

合同会社ゲネプロ代表 ルーラルジェネラリストプログラムディレクター 救急専門医

ノルウェーで離島医療に携わるグリー ベルンツェン先生(写真左)、瀬戸上 健二郎先生(写真中央)、齋藤 学先生(写真右)

すれ違いの、出会い

当時すでに、地域医療に興味を持つ医師たちの間では瀬戸上先生の存在は別格のものがありました。そんな先生と初めてご縁を持ったのは、2003年、私が沖縄県浦添総合病院に救急医として勤務していた時代です。病院が講演に瀬戸上先生を招聘したとのこと。「すごい、あの瀬戸上先生を生で拝見できる」と小さな胸を躍らせました。
ところが、院長先生(井上徹英氏)から呼び出されて宣告されたのは、「先生が講演で留守にする診療所を預かれ」でした!
なんとも非情な運命と天を仰ぎたくなりましたが、結果的に最良のご縁、最高の経験を得られたように思います。先生が講演に出発する前日に私が島に足を運び、1日、診察室で同じ時間を過ごせたのです。しかもその日は私にも患者さんを受け持たせていただけた。
そこで、ある患者さんの甲状腺に腫瘤が認められた。私は何も考えずに、鹿児島の検査センターに検査を依頼する手続きをとろうとしました。それを見た先生は、「ちょっと針を」と言いながら私に代わり、あっという間に生検を採取し、針についた組織の色を見るだけで「良性だね」と。
バリバリの地域医療医とはかくあるものか! と目からウロコが落ちました。
「先生、代診が必要なときは、私に声をかけてください。病院を休んででも、駆けつけます」と、押しかけ弟子を志願するにいたりました。

離島も僻地も、住んでいる人にとっては『都(みやこ)』なのだから

とはいえ、お互いに毎日の診療に多忙で、日常的には接触できるわけではありません。先生に直接かけていただいたお言葉も、「齋藤君は救急をがんばってきたのだから、それをベースに地域医療にがんばりなさい」くらいなものです。もちろん、それはそれで私にとって宝物。
印象に残っているのは、診療所のスタッフから聞いた、「先生が患者さんやスタッフを怒っているのを見たことがない」、「大きな手術の前には、物陰でそっと手を合わせ、成功を祈っていらっしゃる」といった情報でしょうか。
先生はまた、こんなこともおっしゃっています。「地域医療、地域医療と言うが、地元の人にとって離島のへき地も、自分が住んでいる『都(みやこ)』なんだよ。医療が都市部にくらべて劣っていても仕方ないなんて、誰も思わない」――まさにそのとおりです。
瀬戸上先生は、私にとって生涯の師です。診療所を退任なさって時間に融通が利くようになっていただけましたので、私の取り組む総合診療医育成プログラム推進のために講演などを通じてご協力願いたいと考えているところです。
先生、これまでご苦労様でした。そして、今後ともよろしくお願い申し上げます。

薩摩川内市下甑手打診療所 院長(※取材時)
Dr.コトー/瀬戸上健二郎先生

鹿児島県肝属郡東串良出身。鹿児島大学医学部卒。同大付属病院に勤務後、1972年から国立療養所南九州病院で外科医長を務める。78年、下甑村(現、薩摩川内市下甑町)手打診療所所長に赴任し、39年間、離島医療につくす。専門は胸部外科で、肺ガンなどの離手術も手打診療所で成功させ、専門外の内科から産婦人科まで、幅広い分野を一手にこなしてきた。他村の診療所との診診連携や、全国の医大からの研修生の受け入れ、インターネットを活用した医療連携など、離島・僻地医療の改善のために日々尽力している。第25回医療功労賞・中央表彰、平成12年(2000年)度藍綬褒章を受章。第5回 日本医師会 赤ひげ大賞受賞。

(2017年3月取材)