2022.09.28
近年、温暖化や感染症などの影響から人々の健康は、国を越えた問題になっています。グローバルヘルス領域の専門家で、東京大学大学院医学系研究科の橋爪真弘教授に、地球規模の環境と健康を追求する学問「プラネタリーヘルス」について、語ってもらいました。
世界の平均気温はじわじわと、かつ確実に上昇し、2022年には東京都心で35℃を超える猛暑日が過去最多となり、欧州も生命を脅かすほどの暑さに見舞われました。温暖化に限らず、人の営みを原因とする幾多の巨大な変化が地球を覆う中、生じた環境の変化と私たちの健康はどのように影響し合い、そこに医師はどう関わっていけるのでしょうか。国の枠を超えて健康問題を考える「グローバルヘルス」という領域を長く牽引してきた東京大学の橋爪真弘先生に、地球規模での環境と健康を追究する新しい学問「プラネタリーヘルス」の最前線を語っていただきました。
初めから医学の道を志していたわけではありません。同級生の多くが系列の大学に内部進学をするエスカレーター式の高校に通っていたこともあり、何も進路を決めないまま高校3年になっていました。1学期が終わり夏休み前、さすがに決めなくちゃいけない……と頭に浮かんだのが医師でした。「人の役に立つ仕事がしたい」と思ったんですが、それまで医学部どころか受験の準備をまったくしておらず……。模擬試験の受け方すら知らなくて、自分の好きな文系科目ばかり受けて、医学部の合否判定ができない、なんてこともありました。結局、1年間の浪人を経て日本医科大学に進みました。
大学ではそれなりに勉強しつつ、硬式テニス部での活動も満喫、という生活でした。最初は卒業後についてそれほど明確なビジョンはなかったと思います。振り返って、その後の人生に影響したな、と思うきっかけは、3年生と5年生のとき、友人の誘いで2つの研究会に入ったことです。3年の時が農村医学研究会、5年生では東南アジア医学研究会。農村医学研究会では、埼玉県神泉村(現・神川町)の無医集落で住民の検診活動をしました。東南アジア医学研究会ではラオスとベトナムに行き、現地の医学部生と交流しました。その中で、必ずしも医療が充実していない地域、特に発展途上国の医療にかかわる仕事がしたい、という以前から漠然と抱いていた気持ちが、現実的なものとして感じられるようになりました。それが国際保健、グローバルヘルスへの関心につながる契機だったように思います。
大学病院の小児科で研修医を2年間務めた後、葛飾赤十字産院(現・東京かつしか赤十字母子医療センター)の新生児集中治療センターで1年間働きました。小児科を選んだのは、臨床実習をした際に診療科の雰囲気が性に合ったことに加え、ひょっとすると「途上国医療といえば、まずは大変な状況にある子どもを救わなければ」というイメージを当時の私が持っていたのかもしれません。その後、国際保健を学ぼうと、東京大学大学院に進学しました。ただ最初はいくつもある小児科のサブスペシャリティの中から「国際保健」を選んだつもりだったんです。
ですから2年間の修士課程を終えた時点では、臨床すなわち小児科に戻るのか、国際保健に進路を変えるのか、決断できていませんでした。それにひとくちに国際保健と言っても、「国境なき医師団」のように臨床医として主に海外で活動する、JICA(国際協力機構)のプロジェクトなどに参加し、ODA(政府開発援助)などの枠組みのもと、途上国で公衆衛生を担う、などさまざまな道があります。でも最終的に「研究の道で自分のコアになるものを見極めたい」という思いから環境疫学を勉強しよう、と決めました。体系的な学びを優先したかったので、この分野で歴史が深いロンドン大学衛生熱帯医学大学院(The London School of Hygiene and Tropical Medicine)を選び、修士課程で1年、博士課程で3年、環境疫学に没頭しました。
東大の大学院にいたとき、カザフスタンでフィールドワークをしました。カザフスタンには、かつて世界第4位の大きさを誇った湖「アラル海」がありました。面積で琵琶湖の約100倍で、東北地方がすっぽり収まるほどの巨大な湖です。実はアラル海は20世紀最大の環境破壊、と言われています。1960年代からソ連による大規模な綿花栽培が一帯で始まり、農業用水としてアラル海に注ぐ川の水を大量、かつ急速に消費した結果、湖の面積はわずか30年ほどで約10分の1以下にまで縮小してしまいました。その影響で周辺地域の気候が変わり生態系が破壊され、漁業などで生計を立てていた住民は生活の糧を失い移住を余儀なくされました。私が現地を訪れたのは2000年で、石田紀郎先生(当時、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)の調査チームに加えていただき、ヘリコプターで湖の上空を飛ぶ機会があったのですが、眼下に広がっていたのは広大な砂漠でした。その干上がった土地がわずか20、30年前は湖底であったことを知り、人間がこれほどまでに地球の環境を変えてしまうのかと強い衝撃を受けました。

当時、一帯ではアラル海の縮小に起因するとされる謎の奇病がうわさされていました。上流の河川の流域で使われた殺虫剤や化学肥料が原因ではないか、などと言われる中、私は現地で子どもたちの栄養状態を調査しました。重金属が専門の千葉百子先生(当時、順天堂大学医学部衛生学教室)が、子どもたちの毛髪を調べてくださいました。原因らしき物質は見つからなかったものの、子どもたちの6割に貧血があることが判明しました。結論としてその原因は鉄欠乏性貧血でした。簡単に言うと栄養不足による貧血です。カザフスタンがソ連から独立したのが92年。当時は経済が非常に混乱し、電気や上水道の供給もままならず、飲用水は井戸水か川の水でした。当然医療資源も乏しかった。そういう中で鉄欠乏性貧血が非常に増えていた。アラル海の環境破壊という大きな問題が目を引き、化学物質だ、重金属だ、という仮説が出ていましたが、実際はそうではなかった。それを突き止めた時に環境疫学、グローバルヘルスという領域の面白さにはまったように思います。
冷戦以降、ヒト・モノ・情報が猛烈な速さで国境を越えるようになり、健康問題も一気に増加・拡大するようになりました。社会のグローバル化に伴い、健康対策も国の枠組みを超えたグローバルな視点で議論せざるを得なくなっています。また、気候変動や海洋汚染のように、一国では解決しにくく、国際社会、言い換えると地球全体で対処しなければならない課題が増えています。グローバルヘルスはこうした背景から生まれた概念ですが、いわゆる「国際的な問題」を扱う活動だけを指すものではないと解釈しています。例えば、糖尿病や高血圧といった身近な健康課題であっても、そこから見出した知見が他の国や地域で広く役立つものであれば、それはグローバルヘルス活動と呼ぶに値するのではないでしょうか。

プラネタリーヘルスは「プラネタリー・バウンダリーズ」※という概念から生まれたもので、「地球の健康がなければ人間の健康は成り立たない」という考え方に基づいています。日本ではまだ広く知られた言葉、概念とは言えない状況で、統一された和訳も定められていません。しかしSDGsの次に広がっていくキーワードになると予想しています。
グローバルヘルスと大きく違う点は、課題設定の範囲です。例えば、「健康格差の是正」という問題を扱うとき、グローバルヘルスの視点では、医療資源が豊富で健康寿命が長い国、地域と、そうではない国、地域の格差をどう解消するかを考えます。そしてその課題が解決した時点で目標達成となります。一方、プラネタリーヘルスは、未来のことを視野に入れるのが特徴です。いわば「世代間の健康格差」を是正しようとする試みです。地球環境が後戻りのできない臨界点を超えて破壊されると、次世代の人間の健康に悪影響をもたらします。ゆえに環境保全に重点を置いて、医療や健康にフォーカスすることになります。
※プラネタリー・バウンダリーズ(planetary boundaries):産業革命以来の人間活動が地球環境に負荷をかけ続けた結果、地球システムが急激かつ不可逆的な変化を起こすとされる臨界点(限界点)のこと。9つの領域で構成されている。
確かに、環境学者や海洋学者、気象学者といった専門家に比べて、この領域に携わる医師はまだ少数ですが、医師だからこそ活躍できる場面は多々あります。環境課題の解決に向けては「緩和策」と「適応策」を両輪で進めることが重要になるのですが、この両方で医師としての知見が必要とされます。
これ以上温暖化を進めないように温室効果ガス排出を減らすことが緩和策で、変わってしまった、あるいは変わりつつある環境に合わせて社会のシステムや人々の行動の変容について考えることが適応策です。このまま何もしなければ、今世紀中頃には国内の熱中症救急搬送数が2倍になると予測されています。コロナ対応が続いている現在のような救急医療体制では、確実に混乱を招くでしょう。こうした観点から環境の変化による健康影響を分析・予測し、適応策を編み出すことが医師にも求められているのです。
co-benefit はco(共同・相互)とbenefit(利益)を合わせた造語で、例えば温暖化を抑制するための方法が健康増進にもつながるように対策を構成し、その相乗効果を狙っていくという意味合いです。車ではなく自転車に乗ると、温室効果ガスと大気汚染物質を減らせるとともに、よい運動になるので健康にもいいですよね。あるいは、肉食を減らして野菜中心の食事にすることで、肉牛の飼料生産や輸送の際に排出される大量の二酸化炭素や、牛のげっぷ・し尿に含まれるメタンガスを低減させると同時に、より健康的な食生活に変えることができます。IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の最新の報告書でも取り上げられるなど、co-benefitの大切さが世界で認知されています。

個人の特性でいえば、データ解析や社会情勢、ニュースに興味がある人は活躍しやすい分野かもしれません。留学は必須ではないですが、体系的なプログラムを勉強したいのであれば、英米などこの分野の歴史が深いところで学ぶことも選択肢の一つです。海外に出て勉強することは、異文化を知る有意義な機会にもなります。勉学後の進路としては、国立国際医療研究センターやWHO、国内外のNGOなどがイメージされやすいですが、そうした組織に所属しなければ本領域に携われないというわけではありません。「グローバルヘルスとは」「プラネタリーヘルスとは」を熟考して、自分なりの関わり方を追求してほしいと思います。
臨床医学の場合は、目の前にいる患者さんを治療することで一人ひとりから感謝され、医師としてのやりがいを実感できるでしょう。社会医学の場合はマスを対象にしているので、そうした機会は減ってしまうかもしれません。しかし、自分の研究成果を大規模な政策につなげることのやりがいは、ほかでは得がたいものです。もちろん、汎用性の高い内容であることが前提ですが、非常にプラクティカルで醍醐味を味わえる仕事だと実感しています。グローバルヘルス、プラネタリーヘルスに興味がある若い世代の皆さんには、ぜひ世界に裨益する一流の研究をめざしていただきたいと思います。

1996年、日本医科大学医学部医学科卒業。小児科で臨床研修後、1999年に東京大学大学院医学系研究科国際保健学修士課程に進学。2002年からはロンドン大学衛生熱帯医学大学院で修士・博士課程を修める(環境疫学)。2006年以降、長崎大学熱帯医学研究所国際保健学助教、小児感染症学教授、副所長などを歴任。2019年から現職。下痢症やマラリアなどの感染症を始めとする健康と気候変動との関連を研究。気候変動に関する政府間パネル(IPCC)第6次評価報告書主執筆者、世界保健機関(WHO)技術諮問委員、環境省中央環境審議会専門委員などを歴任。