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2018.09.04

国立がん研究センター 理事長特任補佐 荒井保明(あらい・やすあき)先生

仕事の両輪はチャレンジとエビデンス
挑み続ける情熱と、科学への誠実さが
明日のがん医療を築いていく

仕事の両輪はチャレンジとエビデンス 挑み続ける情熱と、科学への誠実さが 明日のがん医療を築いていく

放射線などを用いて体内の状況をリアルタイムに画像化しながら、がんをはじめとする病変を検査、治療する技術がIVR(Interventional Radiology)だ。国立がん研究センター(東京都)理事長特任補佐の荒井保明さんは、この技術の世界的権威。30年以上にわたり、数々の成果を挙げ、現代のがん医療を変えた一人だ。IVRは今や、さまざまな疾患に有用な技術として、世界中で使われるようになった。荒井さんは20代から、エビデンスに基づくIVRの知識と技術の体系化に挑み、絶えず工夫を重ね続けてきた。その尽きぬ情熱の根底には、がんを患いながら毎日を精一杯生きる人たちへの強い思いがあった。

上手な人なら誰がやってもいい 患者さんが少しでも楽になることがすべて

国立がん研究センター中央病院(東京都)で、院長在任中に立ち上げた「患者サポート研究開発センター」にて。通院中の患者、家族が専門スタッフにさまざまな相談ができるほか、多数の書籍も常備したセンターで、壁には多数の絵(写真は、20世紀に活躍したスペインの画家、ジョアン・ミロの作品「壁画」)がかけられ、病院らしからぬ柔らかな雰囲気に包まれている。

「自分を放射線科医とは思っていません」

Interventional Radiologyは直訳すれば「(治療に)介入する放射線医学」となる。これを「IVR」と略すのは日本特有の慣習で、国際的には「IR」と呼ぶのが一般的だ。日本語では「画像下治療」と“意訳”される。日本に本格的に導入されたのは1980年代前半、米国に遅れること数年のころだった。現在はX線透視に限らず、CT、MRI、超音波などさまざまな画像診断機器を介して人体内部をリアルタイムで映し出しながら行う治療、検査法全般を指し、循環器領域でのいわゆる心臓カテーテルや脳血管などでの血管内治療以外に、がん治療の分野でも広く使われている。外科手術に比べ、患者への侵襲が圧倒的に少ないのが最大の特長だ。

1979年、東京慈恵会医科大学を卒業した荒井さんは、IVRとともにそのキャリアを歩んできた。国立東京第二病院(現・国立病院機構東京医療センター)を経て、愛知県がんセンターでは放射線診断部長、国立がんセンター(現・国立がん研究センター)中央病院でも放射線診断部長を務めた。2012年に同病院院長に就き、マネジメントが主業務となってからも放射線診断科長とIVRセンター長は兼任。誰もが、IVRそしてそれを用いたがん治療の第一人者と認める存在だ。

だがインタビューの冒頭、荒井さんの口から出たのは、こんな言葉だった。「私は、自分を放射線科医とは思っていません」。そして笑みをたたえながら、おだやかな口調でこう続けた。「私はもともと内科医です。その後、放射線科に転向しましたが、放射線科医という自覚は正直なところ乏しいですね」

元来、IVRは診断技術として発展してきた放射線医学に、「治療に直接介入する」要素が付け加えられて成立したものだ。今では、さまざまな領域で活用されるようになり、担い手も多い。例えば心臓カテーテル治療は放射線科より循環器内科や心臓血管外科の仕事と認識されることが多く、消化器領域のIVRは消化器内科・外科とも近い。つまり放射線科と他の診療科との境界域に位置する技術と言える。そのため、どうしても技術の担い手をめぐるターフバトル(縄張り争い)にも発展しがちだ。しかしこの領域の最高のオーソリティの位置にいる荒井さんの見解は、想像以上にしなやかだ。

「IVRが放射線科医だけのものだとは思っていません。患者さんを診る能力と知識があり、読影できるという共通の土台がありさえすれば、何科の医師でも上手な人がやればいい。画像を使って体の中を透視して、大きな外傷をつけずに治療することは全て、IVRだと理解していただければよいと思います。その意味で“Radiology”という言葉は、今では技術や知識の共有の妨げになってきている感があります。診療科に関係なく、ましてやターフバトルもなく、患者さんがなるべく楽に治療ができればそれでよいのです」

がん緩和医療にこそ有用

2016年、IVRを始める直前、精神を集中させる=提供・荒井保明さん

現代のIVRが対象とする疾患は、生活習慣病から外傷まで非常に多岐にわたるが、やはり重要な治療ターゲットとなるのはがんだ。IVRを手掛ける放射線科医の主戦場もがん治療で、その領域を特に(今のところ、広く普及した日本語訳はないようだが)Interventional Oncologyと呼ぶ。

例えば、肝臓の病巣部を透視しながら、がんに栄養を送る動脈に直接抗がん剤を注入するととともに、血流を途絶えさせてしまう「肝動注化学塞栓療法」。がん病巣に直接針をさし、熱で腫瘍を焼き切ってしまう「経皮的ラジオ波焼灼療法」。これらは代表的なIVRの手技だ。患者の体を画像で見ながら腫瘍に針を刺し、組織を採取してくる経皮的針生検も、古くからあるIVRではあるが、最近の遺伝子情報に基づいた治療の導入で、改めてその重要性が増している。

一方、荒井さんによると、現在、放射線科医が行うInterventional Oncologyの約7割は緩和医療に属する治療だという。言い換えれば、IVRはがんの緩和医療に適しているということだ。「がんという病気は、がん自体よりも、その影響で生理的に異常な状態が体内に起こり、痛みをはじめ、さまざまな苦しい症状が出ることがつらいわけです。切除できないがんを焼灼したり、凍結したりするのもIVRの仕事ですが、そのような治療で根本的に治せるのは、一部の患者さんの場合と言わざるを得ません。しかし、がんによって血管が詰まり、下半身が腫れあがってつらい場合、本来溜まってはいけないものが溜まったために苦痛が生じている場合、そんな症状は、実はIVRが一番力を発揮できる領域なんです」

そう話す荒井さんは、国立がんセンター中央病院で、初めて緩和医療目的でIVRを実施した人物だ。

「緩和のカンファレンスに出て、麻薬の量をどうしようかとか議論している場面で、『こんなことしてはどうですかね?』って提案していました。そうすると、IVRの実施当日は黒山の人だかりです。皆さん、鵜の目鷹の目でね。当時は国立がんセンターでもIVRなんてほとんど誰も知りませんでしたから」

がん医療の意義とは? 患者さんの持つ「宇宙」に気づいた時、 その答えが見えてきた

白血病の少年との出会い

ここで改めて、荒井さんのキャリアを振り返ってみたい。

医師を志した当初から、がん医療にかかわることを目指していたわけではなかった。大学在学中は、勉強より全学学生会の委員長として、もっぱら勉強以外の活動に忙しい毎日だった。「成績も『やっと卒業』のレベルで、多分大学としての期待もなかったのでしょう」と笑う。公衆衛生学が好きだった荒井さんに、「厚生省(当時)技官への道に進んではどうか」と勧めたのは、当時、同大学附属病院長(のちに学長、学校法人慈恵大学理事長)の阿部正和氏(故人)だった。

しかし、入省は決まったものの、「せっかく医師になったのだから患者さんにも接してみたい」と、国立東京第二病院での内科研修を希望。とりあえず2年間という約束で臨床現場に入った。しかし各科をローテートしてみると、いずれの仕事もおもしろく、2年間の約束が3年、4年と延長。5年目に、「本省に戻るのか戻らないのか」を迫られ、「すみません、戻りません」と退路を絶ち、臨床医の道を進むことになった。その間、そして結果的にその後も、キャリアの本流だった大学医局には一度も属していない。「アウトロー的な渡世観ゆえの選択?」と尋ねると、「まったくその通り」という答えが返ってきた。

東京第二病院では各科を回った荒井さんだが、当初、がん医療は遠い存在だったという。「あのころは現在のような有効な薬剤はなく、抗がん剤はたまに効くことがあっても副作用が強く、今と比べれば悲惨な状況でした。血液製剤やグロブリンなどの当時でも高価な薬剤を使っても、患者さんは3カ月か、半年、1年で亡くなってしまう。無駄なことをしているような気がして……。抗がん剤治療が一番嫌いでした」

そんな見方を180度変えたのは、卒後3年目にたまたま担当した小児白血病の男の子だった。感染症があるためにほとんど個室から出られないその子の部屋に通い、話をし、遊び相手をするうちに、荒井さんに見える景色が変わっていった。

「その小さな部屋に彼の宇宙があると気づいて、衝撃を受けたのです。一見自由に見えますが、私たちも本当はとても狭い範囲で生きているだけです。その範囲から出ると言ったって、日本から出るのは稀ですし、地球から出るわけでもない。宇宙の大小ではなく、その人のもっている宇宙そのものが大切なんだ、ということに気づきました。そう気づいた時、誰でもいつか死ぬわけですが、時間の長短や宇宙の大小ではなく、その人の宇宙を大切にすること、それを維持するために力を注ぐことも医師の大事な仕事だと気づきました」

この時から、荒井さんは腫瘍内科医をキャリアの目標に据える。84年には本格的に化学療法を学ぶために、愛知がんセンター化学療法部長(のちに総長)の太田和雄氏を頼って同センターに就職。内科のポストに空きがなく、血管造影の経験があるからと空席があった放射線診断部に配属された。そして、このころから、世界を動かす技術革新を次々と成し遂げていく。まだ20代後半から30代にかけての若手時代だ。

肝動注化学療法へのチャレンジ

荒井さんが確立し、今や世界中で行われている技術の一つに、肝動注化学療法がある。この技術を編み出したのも、東京第二病院勤務時代、卒後わずか3、4年目だった。

当時、荒井さんは海外や日本の一部で動注化学療法という方法が試みられているのを知った。がん病巣部に血液を送りこんでいる栄養血管から抗がん剤を投与することで、全身投与に比べてずっと少ない投与量で、局所的に抗がん剤の濃度を極めて高くすることができる。結果、薬の効果が高く、かつ副作用は軽くなる。荒井さんはこの技術を当時治療法のなかった転移性肝がんの治療に活かしたいと考えた。

だが肝がんの場合、当時使われていた抗がん剤(5-FU)を少量ずつ持続注入するポンプを、患者の肝動脈に入れたカテーテルと常時つないでおかなければならなかった。論文を読みながら、独学で実践してみると、がんを縮小させる効果は劇的だ。しかし患者の負担が非常に大きかった。「せめてシャワーを浴びる間だけでもポンプを外せないものか」と思ったものの、当時は「カテーテルには常に薬剤を通しておかないと詰まる」が常識。「どうすれば詰まらせず、ポンプから解放できるか」を考え抜いた末、血液が固まらない薬を少量注入しておけば、「ポンプを外しておくことは可能。すべてを皮下に埋め込んでしまうこともできる」という発想にたどり着いた。

間もなく、荒井さんは国内企業の協力のもと「皮下埋め込み式リザーバー」を開発、1983年に論文として発表した。以来、80年代を通じて肝動注化学療法は世界を席巻した。リザーバーは「ポート」と名前を変え、最新の全身化学療法でも必須の器具として活用されている。

肝動注化学療法は今、全身化学療法の飛躍的な進歩で治療の最先端からは引いた状態にあるが、この技術の開発過程での発見が、荒井さんを全面的にIVRの道に引き込んだ。当時、欧米ではカテーテルの留置は開腹手術で行うのが常識だったが、荒井さんは血管撮影の技術を活かして経皮的に留置する技術を確立した。その技術こそ日本に入ってきたばかりのIVRそのものだった。

Angio-CTの開発、そして挑戦と安全性の狭間

2016年、国立がん研究センター中央病院IVRセンターのAngio-CT装置の前で=提供・荒井保明さん

もう一つ、荒井さんが取り組み、大きな功績を挙げたのがAngio CTと呼ばれる装置の開発だ。これも、肝動注化学療法の改良過程で生まれた。肝動注化学療法で注入した抗がん剤がうまくがん病巣に達しているかを判断するためには、患者の血管に造影剤を入れ、三次元的な画像を表示して病巣部の薬剤の分布を知る必要がある。それには血管撮影装置だけでは不可能で、CT装置が必要だ。当時は患者を血管撮影室からCT室に運んでいたが、手間がかかり危険も多い。そこで企業と共同で血管撮影装置とCT装置を合体したAngio-CTを開発して、1992年に発表(当初はIVR-CTとの名称が用いられていた)。Angio-CTは当初の予想以上にさまざまなIVRに活用可能であり、後の多彩な領域へのIVRの拡大、進展に大きく寄与することになった。

立て続けに挙げた画期的成果の原動力は、仲間の存在だったと荒井さんは言う。1980年代から、同じ志の仲間と立ち上げた「リザーバー研究会」は現在も活動継続中だ。「その時々に良い仲間がいて、大変勉強させてもらいました。アイデアが一人の思いつきに留まっているうちはそれ以上伸びません。私はアイデアを隠さず、むしろ仲間に話していました。そうすると一緒に考えてくれる仲間が『こうすればもっとよくなる』『この方がいいんじゃないか』と言ってくれる。肝動注化学療法も、Angio-CTも仲間と一緒に切磋琢磨したおかげで、一つの体系にまとめることができました」

こうして、荒井さんはライフワークとしてIVRとかかわり続けた。その仕事は常にチャレンジの連続だが、荒井さんには「師匠」に相当する指導者はいなかったという。「いろいろなところから(技術を)盗もうとは思いましたが、そもそも盗めるような見本がない。論文を読んで実践してみたものもありますが、ほぼ自己流です。行ったIVRには世界初のものがいくつもありましたが、ほぼすべての方法、技術を自分自身で考え、工夫しながら生み出さねばならない状況で、無数のハードルを一つずつ越えていく作業でした」

そう話しつつ、「20代の経験の浅い医師が自己流で、なんて今なら問題でしょうね」とも言う。もちろん、患者にはその都度、正直に「誰もやったことがない手技ですが、こうすると良い結果になる可能性があると思うんです」と説明した。「運もあったでしょうが、手先が器用だったことも関係したかもしれません。結果、一度も大きな問題には遭遇せずにやってくることができました」

そうして続けてきたチャレンジは大きな実績を生み、がん医療を確実に前に進めた。しかし今の若い医師が、同じレベルの挑戦をすることができるだろうか。実はそこに荒井さんの危惧がある。「今は当時と同じことは許されないでしょう。それはよくわかります。人の命にかかわることですから、倫理面も含めた最大限の安全性の担保は不可欠です。でも、その半面、医学の進歩には若い人の発想やチャレンジが不可欠です。今は、チャレンジがとてもしにくい環境になっていると思います。萎縮し、チャレンジがなくなれば、医学の進歩も止まってしまいます。その点が心配です」

チャレンジとエビデンスは表裏一体

荒井さんは1984年から2004年まで、愛知県がんセンターで20年に及ぶキャリアを積む。ちょうどその時期に重なる1990年代、世界の医療はEBMの時代に突入する。肝動注化学療法の新進気鋭であった荒井さんは、国内外の学会に呼ばれていたが、そこで腫瘍学の世界に急速にEBMが定着するのを目の当たりにした。翻ってIVRはと言えば、依然として「職人芸」の範疇にあり、海外にもエビデンスの蓄積がほとんどなかった。そこで、2002年、荒井さんはIVRの臨床試験組織である「JIVROSG(Japan Interventional Radiology in Oncology Study Group)を結成、IVRのエビデンスの蓄積に自ら乗り出す。

「エビデンスとチャレンジは表裏一体です。チャレンジしなければ次の進歩がないし、チャレンジがうまくいっても、エビデンスを示さなければ、残ることがなく、進歩にもつながらない。チャレンジしながらエビデンスを固めていくという作業を計画的に継続していかなければ、医学は前に進みません」

JIVROSGの活動は現在も継続しており、これまでに30以上のIVRの臨床試験を実施している。

医師にも社会にも IVRの認知度アップに奔走

「IVR医はいないの?~その病気、切らずに治せるかも~」(原作・荒井保明、漫画・MAKO./サイドランチ、 メディカルアイ刊)

すべての人に死は訪れる ほんのわずかな偶然が生死を分けることを ヒマラヤ登山が教えてくれた

生と死との間をさまよう

2013年1月、冬山のテントの中で=提供・荒井保明さん

がん医療の第一線で、患者の生に寄り添いながら、チャレンジを続けてきた荒井さん。その間には、自らも九死に一生を得た体験がある。その一つはヒマラヤ登山中に雪崩に巻き込まれたことだ。

山岳部に在籍した高校時代から続けている登山は本格的な趣味で、幾度か危険な思いもしてきた。ヒマラヤにも2度挑戦したが、その2度目、1983年の遠征隊でナンガパルパット(8125m)の第1次アタック隊として7200m付近を登っている時、大雪崩に遭遇した。700mほども流され、2000m以上も落差のある絶壁(ルパール壁)の手前で偶然止まった。右手を骨折しながら、再びいつ雪崩が起きるかわからない壁を降りて生還したが、テントで同宿し、当日の朝食も一緒に取った仲間は行方不明となった。25年が経った今も遺体は見つかっていない。

そしてもう一つの体験は、愛知がんセンター勤務時代。肝動注用のカテーテル・リザーバー留置術中に誤って自身に針を刺してしまい、B型肝炎を発症、GOT、GPTの高値から劇症化が疑われた。幸い1カ月の入院で回復したが、一時は「これは助からない」と確信し、「死ぬのなら生まれ故郷の東京に帰りたい」と病院を脱走することばかり考えていたという。

「自分の体験を踏まえて、愛着を感じる土地って大事だな、と強く思います。がんが治るなら、きちんと治した方が良いし、延命できるなら、もちろん、それも悪くない。でもある一線を越えた時、誰がどう治療しても結果はもう変わらないという状況が訪れます。そうなった時、限りある時間をいかに心地よく過ごすかという点で考えると、主治医がその病気のスペシャリストである必要は必ずしもない。むしろ古くからのかかりつけの医師で、家庭の状況まで知っているような信頼関係がある先生が身近にいてくれた方が、患者さんはハッピーかもしれない」

がんにならなくても、またまったくの健康体であっても、ほんのわずかな偶然が人の生と死を分ける。ヒマラヤで、そして自身の勤める病院で、命の危機を体験したことは、荒井さんがどういう死に方をするかを常に考えるきっかけになった。

「死生観」を持つ習慣を普及させたい

荒井さんは医師になってまもなく40年を迎える。その間に、日本のがん患者人口は2.5倍以上増加した。がん医療技術は飛躍的な進歩を遂げたものの、その半面、大きな課題が生じていると感じている。

「現在のがん医療には、莫大な費用がかかっています。医療への要求も非常に高くなっています。もちろん、それは当然でもあり、決して悪いこととは言えません。しかし、高齢化が進み、逆三角形の人口構成となった日本では、今後は労働力も経済成長も厳しい状況におかれる。その兼ね合いを考えた場合に、がん医療にどこまで費用を投じるべきなのか……」。荒井さんの問題意識は「いかに死ぬか」という点にある。いわばどんな「死生観」を持つかという問いかけだ。そのことに日本人は「無頓着なことが多い」と感じている。一案として、荒井さんは最近、臓器提供の意思表示のように、生命の危険が迫っていることが判明した時点で、延命のための高額な医療は拒否するという意思表明ツールを作ってはどうかと考えている。

「人は誰でも死にます。その時自分はどこで死にたいか。病院か、自宅か、大自然の中か……。どんな風に死にたいか。本来、皆が考えなければいけないことであり、それぞれに答えをもっているはずなのです。しかし、今の日本人は死に直面する土壇場になってバタバタと慌てているのが現実です。病気になる前から、死生観をもつ習慣を日本の文化的風土の中に加えていきたい。私も65歳になりました。そろそろこういうことを話しはじめてもいいだろうと思っているところです」

小澤征爾をうならせたソプラノからビートルズへ ―― 趣味の域を超えた音楽生活

山と並ぶ荒井さんの趣味が音楽。それも登山と同様、これを趣味の範疇と言っていいものか……という凝りようだ。そのキャリアと思い出を語ってもらった。

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音楽を始めたのは声変わり前の小学生時代。ボーイソプラノで、合唱団に所属していました。全国の演奏旅行にも行き、また、声変わり直前の中学1年のころは、大人に混じって子役のような形で歌ってもいました。小澤征爾さんのオネゲル作「火刑台上のジャンヌ・ダルク」日本初演の時に、子役の部分をソロで歌わせて頂いたのはいい思い出です。国立がん研究センター中央病院の病院長時代に小澤さんが母校の成城学園のOBの方々とボランティアで病院に来て下さったことがあり、ご挨拶をしたのですが、「50年前に小澤さんの指揮で歌わせて頂いたことがあります」と申し上げると、「おー、あの時の子役かあ」と覚えておられ、うれしかったことがありました。

大学在学中はロックバンドをずっとやっていました。世代から、根底にはビートルズへの傾倒があったように思います。担当はベースギターとボーカル。これは人並みの学生時代のバンド活動です。

医師になってからは、音楽から離れていたのですが、愛知県がんセンターを離れる前くらいに、ピアノを弾きながらビートルズソングを歌うようになりました。ピアノは習ったこともなく、譜面も読めないので苦労していますが、レパートリーは10曲くらいでしょうか。

退任記念パーティでプロのミュージシャンとセッションをし、ビートルズの弾き語りで聴衆を沸かせた=提供・荒井保明さん

年間近となった昨秋にひょんなことで、ビートルズを演奏するプロのバンドの方々と知り合い、以後、時々ジャムをさせていただいています。今年2月の私の退任記念パーティーは、彼らと組んで、ライブパーティーにしてしまいました。私はベースでHello Goodbye、ピアノとボーカルでLady Madonna、Hey Judeなど4曲をやりました。退任記念パーティーはつまらない、という定番の認識をぶち壊そうと企画をしたのですが、お越しいただいた方々には結構楽しんで頂けたようです。400人の出席者が最後までほとんど帰らなかったと、会場のホテルの人に驚かれました。
①2015年4月、フランス・ニースで開かれたECIO(欧州腫瘍IVR学会)でhonorary lectureを受賞し、講演を行った。講演タイトルは「Beyond the evidence – the true goal of interventional oncology」。ECIOで欧州出身者以外が表彰されたのはこの時が初めてだという。

②2014年、国立がん研究センター中央病院の院長時代。

2018年2月、コンラッド東京(東京都)に400人もの参加者を集めて開かれた国立がん研究センターの退任記念パーティーの一コマ。

=この項の写真提供・荒井保明さん

国立がん研究センター 理事長特任補佐
荒井保明先生

1979年 東京慈恵会医科大学卒業
     国立東京第二病院内科(現・国立病院機構東京医療センター)
1984年 愛知県がんセンター放射線診断部
1997年 愛知県がんセンター放射線診断部部長
2004年 国立がんセンター(現・国立がん研究センター)中央病院放射線診断部部長
2010年 国立がん研究センター中央病院副院長/放射線診断科科長
2012年 国立がん研究センター中央病院院長/放射線診断科科長・IVRセンター長
2016年 国立がん研究センター理事長特任補佐/中央病院放射線診断科長・IVRセンター長
2018年 国立がん研究センター理事長特任補佐(非常勤)/中央病院放射線診断科、IVRセンター(非常勤)

東京慈恵会医科大学客員教授
聖マリアンナ医科大学臨床教授
日本IVR学会専門医、理事長(2014年~2017年)
JIVROSG(Japan Interventional Radiology in Oncology study Group)代表(2002年~2018年)

(肩書は2018年5月取材時のものです)