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2018.07.10

聖路加国際病院リウマチ膠原病センター 医長 岸本 暢将(きしもと・みつまさ)先生

ゼネラリストを夢見て日本を飛び出した
若い医師が米国で触れたのは、
大きく変貌を遂げたリウマチ学の姿だった

ゼネラリストを夢見て日本を飛び出した 若い医師が米国で触れたのは、 大きく変貌を遂げたリウマチ学の姿だった

日本の介護保険制度が始まろうとしていた1990年代末。これからの日本の課題は高齢社会にあると察して、老人医療で身を立てようと考えた医学生がいた。総合内科医としてのトレーニングを受けるため彼が選び取った道は、米国での臨床留学。そこで出会ったのが、リューマトロジー(リウマチ学)だった。
ゼネラリストでありながらリウマチ専門医でもある岸本暢将という医師は、いったいどのように育まれたのか。

学ぶべき領域の多い総合内科 日々の知識の更新が医療の質を高める

10年ごとに更新試験がある米国専門医資格

東京・築地の聖路加国際病院。築地市場からは少し距離があり、近隣の公園や街並みがまだ静寂に包まれている朝7時に、リウマチ膠原病センター医長の岸本暢将氏は自分のオフィスに入る。日常診療に加え、東京医科歯科大学医学部臨床教授、東京大学医学部リウマチ内科非常勤講師として教鞭も執る岸本氏にとって、患者もまだ来ないこの時間帯は貴重な自分の時間だ。メールをチェックすると「The New England Journal of Medicine」「Annals of Internal Medicine」、米国リウマチ学会(American College of Rheumatology;ACR)など、新着情報が毎日大量に送られてきている。それをひとつひとつ入念にチェックし、これはと思った文献のアブストラクトを読む。

「今朝のNEJMにはシェーグレン症候群についての記事があったので、プリントアウトして、トイレに持ち込んで読みました(笑)。で、朝8時の回診時に同僚医師にポイントを教えてあげて、読むように勧める。それが私の日課です。当科はロールモデルである部長の岡田正人先生をはじめ、みんなが最新の知識をシェアしようという意識があります。国際学会が開催されれば、渡米しているスタッフがセッションのポイントを科のメーリングリストに送ってくれます。1週間の学会でトピックが100以上にも及ぶこともあります」

現在、同施設のリウマチ膠原病センターには岸本氏を初め、米国留学の経験と米国リウマチ膠原病内科専門医をもつ3名の医師が所属している。最新情報をシェアする習慣は、10年ごとに行われる米国専門医資格の更新試験に備えて、一緒に勉強していこうという意識の表れだ。岸本氏は米国内科専門医も取得しているので、総合内科医として勉強すべき領域がさらに広い。

「ちょうど2014年が10年目だったので、内科のすべての科をもう一度勉強しなおしました。10年経つと新しくなっている情報がかなり多い。自分の知識を一新するよい機会でした」

聖路加国際病院

リウマチ膠原病センターは、循環器内科や腎臓内科などの内科以外にも、皮膚科や放射線科、眼科など、院内各診療科との連携が多い。他科との連携は、ただ「お願いします」と丸投げすることもできなくはない。しかし、岸本氏はそれを専門外の知識を身につけるよいチャンスだと考えている。

「自分の専門外であっても自分なりにある程度の知識を身につけた上で患者さんを送り出すようにしています。たとえば放射線科への画像診断のオーダーでも、『右のLの4番の根障害、腰椎椎間板ヘルニアあるいは狭窄症などありませんでしょうか』と聞けばそこを重点的に診てくれるから所見は全く違ってくるはずです。『間違っているかもしれませんが、△△という所見があったので〇〇を疑いましたがいかがでしょうか』というように、伝えるひと言で医療の質はぐっと上がります」

知識のUp-to-Dateが楽しくてたまらないといった表情で話す岸本氏だが、多忙な診療の合間の貴重な時間を勉強に割く毎日は、苦にならないのだろうか。

「きっと、高校時代まではあまり勉強しなかったのがよかったのでしょうね(笑)。私は小学校~高校まで一貫教育の私立だったので、いわゆる受験戦争を味わっていないのです。だから今は、いくら勉強しても苦にはなりません。自分で調べ、学んだことをすべて患者さんに活かせる。そういう職業って、他にあまりないのではないでしょうか」

高齢社会を見据えて老人医療を目指す

現在、岸本氏の専門は関節リウマチ、SLE(全身性エリテマトーデス)を代表とする膠原病全般、さらに乾癬性関節炎を含む脊椎関節炎など幅広く診療を行っている。だが初めから膠原病の専門医を志したわけではない。もともとゼネラリスト志向であり、医学部4年生の時点では、「老人医療」に注目していた。現在の話ではない。1990年代初頭の話だ。

老年科は今でこそ多くの大学で設置されているが、当時はまだいまほど一般的とはいえなかった。内科領域でいっても循環器内科、消化器内科などと比べると、地味な存在だっただろう。医師人生の入り口に立つ若い学生にとって、何が魅力だったのか。

「特定の臓器ではなく全身が診たかったのです。それに日本の高齢化が急速に進み、高齢者人口が爆発的に増えていくことは目に見えていましたから」

既に現在の日本の状況を予測していた?

「予測していました。だから何かしら社会の要請に応えたい、自分自身を社会に活かしていきたいという気持ちがありました」

当時は介護保険導入(2000年)前夜ということもあって、介護問題がマスメディアでもよくとりあげられていた。全国的に注目されていたのは、若月俊一医師のもと全国に先駆けて全村一斉健診を始めた佐久総合病院(佐久市)や、鎌田實医師のリーダーシップで独自の医療と福祉の連携モデルを実践していた諏訪中央病院(諏訪市)があり、高齢社会のモデル地域とされた長野県だ。長野の事例から日本の高齢社会の未来像をどう構築するかをテーマに開催された講演会に、岸本氏もよく足を運んだ。

「日本の医療政策に興味をもち、友人と同好会を作ろうか、というところまでいったのです。実際には、野球部に入っていたので同好会設立は計画だけにとどまったのですが」

教授と新人医師のディベート、ワークライフバランスの実践 海外には日本にない医学教育があった

1カ月間の短期留学が人生を変えた

柔軟で、何でも吸収してやろうという若さに満ちた学部生時代、学外の学びの場に積極的に世界を広げ、多くの刺激を受けた岸本氏の関心は、さらに外に向かう。海外である。

医学部5年生のとき、オーストラリアに1カ月の短期留学をした。ビクトリア州にあるモナシュ大学の附属病院「Monash Medical Centre」で見た医療は、日本の大学病院のそれとはまったく異なるものだった。その経験は、岸本氏にとって「洗礼を受けたようなもの」となり、卒後の進路を決める大きな羅針盤になっていく。

「教授の回診中、若手も遠慮なく意見を言い、ディベートするのです。それに、皆朝早くから来て仕事をする代わり、夕方仕事が終わると、研修医でもさっと帰ってしまうことにも驚きました」

上司が残っているうちは、研修医は帰るのがためらわれるといった日本の慣習に比べると、オーストラリアの医師の生活は全くの別物。現代の言葉でいえば、ワークライフバランスが良好だった。岸本氏も勤務時間以外は医学部生とテニスを楽しみ、教授の自宅でのホームパーティーにも参加した。休暇にはバックパッカーとしてオーストラリア各地をめぐり、ユースホステルや登山道で出会うさまざまな国籍の人々と英語で会話をした。海外の文化と暮らしを満喫し、ダイバーシティを経験するきっかけにもなった。

とはいえ、当時から現在のような語学力で、勉強に趣味に自在に取り組んでいたわけではない。「今なら日本語とほぼ同じ速度で読める医学書1ページを、当時は1日かけて訳していた」という。教授回診中のディベートも、何を言っているのかさっぱりわからなかったし、宿泊先のドミトリーでは各国から集まった研究者がキッチンで自炊しながら楽しそうにディスカッションしている中にどうしても入れず、悔し涙を流した。

「怖くて入っていけないのです。自分の気持ちをひとつ持ちあげないと英語では話せない。本当にそれが自分で悔しくて……。今は、会話はほとんど問題ありませんが、それでも気持ちの上でそういうところは少しありますね」

「海外臨床研修」を胸に沖縄、そして米国へ

沖縄県立中部病院

帰国後に考える自分の卒後の姿は、海外にしか描けなかった。大学卒業は1998年。初期臨床研修の必修化(2004年)が始まる前だから、卒業後は出身大学の医局に入るケースがほとんどだった。常識的な道を選ばず、海外留学を志す“異端児”はごく少数派だ。

「老年医療を専門に勉強するには当時日本の医学部では老年医学科が少なく、調べるとアメリカにて多くのプログラムで正式なトレーニングを受ける事ができることを知りました。オーストラリアで世界各国の人々と交流し、回診でのアクティブなディスカッションや教育をみて、アメリカで研修医としてトレーニングを積みたいと決心しました」

米国臨床留学という目標が定まると、そのステップとして沖縄県立中部病院で研修を受けた。同病院は現在も「臨床研修病院の雄」として高名だが、ハワイ大学卒後研修プログラムを採用し、いわゆる米国型の屋根瓦式教育を取り入れている。毎年、米国から権威あるコンサルタントを10名ほど招いて、専門医がプライマリ的視点で教育(教育回診)を行っている点が魅力であり、強みだ。ここでの臨床研修の後、渡米している先輩医師も多い。岸本氏は、6年生の夏休みを利用して、同級生とともに1週間、同病院へ見学に行き、宮城征四郎医師、安次嶺薫医師、安里浩亮医師、喜舎場朝和医師、徳田安春医師など、多くの専門医を育ててきた名医と出会い、彼らの回診をつぶさに見る機会を得た。それはまさにディスカッションしながら病棟を回る、オーストラリア形式の回診だった。

「実際に自分で行って、経験して、『これだ!』と思いました。99%の学部生が卒後母校の医局に入るのに、私が沖縄県立中部病院を選んだのは自分の目で見たからです。ここならロールモデルがたくさんいると思える病院でした」

ところで、日本人を含む外国人がアメリカで臨床研修を受けるには、米国医師国家試験(USMLE)と臨床実地試験(CSA)、TOEFLの3つに合格しておかなければならない。岸本氏は大学6年生のときにUSMLEに合格、卒後2年間沖縄県立中部病院で研修を受け、3年目には在沖縄米国海軍病院で1年間、研修医として働いた。米国海軍病院での臨床研修は、国内にいながらアメリカの医療を体験することができ、英語でのコミュニケーション力、プレゼンテーション能力を高めることができるまたとない環境だ。ここで岸本氏はコンサルタントとして赴任していた臨床医学教育のエキスパート、ジェラルド・スタイン医師や小児科のマックス・エリオット医師のもとで働き、家族ぐるみの交流をもった。エリオット医師から3ページにわたる推薦状をもらうことができたのは、その後、ハワイ大学内科への留学を実現する大きな力となった。

語学のハンディを乗り越えるために

ハワイ大学の臨床研修は充実しているが、米国本土にはもっと格上の大学がたくさんある。岸本氏はオーストラリア、沖縄県立中部病院の時と同様、「自分の目で見て」研修先を選ぶことにした。ハワイ大学のエクスターンシップに応募して、1カ月間現地に滞在。そこを拠点として、全米10カ所の大学病院への「インタビュー・ツアー」を敢行した。

「トレーニングに関してはどの病院も同じでした。もちろん、東海岸、西海岸の大学の先生から見ればハワイは田舎の大学でしょうが、私の目で見て、『これならハワイ大学でも同じトレーニングが受けられる』と思ったのです」

実際にハワイ大学での生活は、日本人研修医である岸本氏にとって心地よい点もあった。

「当時のハワイは島民の25%が日系人でしたから、日本人は決してマイノリティではありません。ハワイ大学でも日系人が主要なポストに就いており、その意味では差別されている感じもなく、むしろ重宝される。研修を受けやすい環境でした」

とはいえ、語学力のハンディはここでも痛感した。

「内科研修は2~3年目の研修医と1年目のインターンである私、学部3~4年生の3人1組です。担当業務はすべて理解でき、仕事はきちんとやっているのですが、発表を求められると、私のプレゼンテーションが伝わらなくてやっていないように聞こえてしまう。上級医から『なぜお前はちゃんとやっていないのだ』と30分間ひどく責められました。それが悔しくて、2度目の涙でした」

そんなハンディを克服するために、岸本氏はある行動をとった。沖縄県立中部病院の先輩でもあり、アメリカでの臨床研修の経験もある青木眞医師(現・感染症コンサルタント)からのアドバイスに従い、毎日アメリカ人よりも早く出勤することを自分に課した。

「朝は4時半に病院に行き、上級医やコメディカルの来る7時には既に回診を終え、診療記録、指示書を書き終えていました。他の人が出勤するころには仕事が終わっている。上級医を楽にさせて、余裕ができればその分指導内容も増えますから、自分にとってもメリットが大きいのです」

その年、米国人を含む同期の研修医約20名の中で、岸本氏はベストインターン賞を授与された。語学のハンディはあっても、それを上回る努力が実を結んだ。

「いつも笑顔を絶やさないように意識していたのもよかったように思います。どのみちやらなければならない仕事なら、気持ちよく笑顔でやるほうがいい。語学のハンディはあっても、多くのことを学べるから研修は楽しく、一生懸命やりました」

「リウマトロジーを日本に持ち帰る!」

ハワイでの研修医生活1年目には、大きな転機があった。日系人でMayoクリニックでトレーニングを積まれたリウマチ膠原病内科の専門医、ケンアラカワ医師との出会いである。岸本氏は内科ローテーションで1カ月間、アラカワ氏の下でトレーニングを受けた。老人医療を目指していた岸本氏にとって、初めてリウマチや膠原病を専門的に学んだ機会だ。

「もう、すごく興味を惹かれて、リウマトロジー(リウマチ学)をやりたい!と思いました。アラカワ先生の患者さんは変形性関節症、骨粗鬆症、メタボリックシンドローム、サルコペニア、ロコモティブシンドロームと多様で、患者さんの家族も診ているし、先生の取り組み自体が老人医療そのものでした。私はスポーツが好きだったので解剖学にも興味があるし、HIVの勉強をきっかけに感染症、免疫学も好きでした。リウマトロジーはそのすべてが組み合わさった領域なんです。アラカワ先生との出会いは大きかったと思います」

折しも生物学的製剤が登場し、それまで原因不明の難病とされていたリウマチ診療が大きく変わり始めたばかりのタイミング。日本では未承認の新薬をいち早く経験することができた幸運もあった。

「治らないと言われていた患者さんが寛解するようになり、関節リウマチは治る時代だと言われるようになりました。それまで経口抗リウマチ薬やステロイドで進行し身体機能障害をきたしていた患者さんの多くの予後を改善することができました。生物学的製剤は本当に患者さんの人生を変えたと思います。アラカワ先生のもとで使用例をたくさん見ることができたので、しっかり勉強して経験を積めば、日本でも教えることができるだろうと思いました。アメリカにしかない医療を日本に持って帰れば、帰国後の自分の力になるのではないかと」
留学1年目で大きなテーマと出会った岸本氏は、リウマトロジーの専門教育を受けるべく、3年間のハワイ大学での研修終了後、ニューヨーク大学リウマチ科フェローシップへと進んだ。いくつかの関連病院をローテートするのだが、米国最高峰のひとつニューヨーク大学のおひざ元だけあり、どの病院でも世界的権威から直接指導が受けられた。膠原病専門外来には東海岸のあらゆる病院から送られてきた患者が集まるため、数カ月の研修で膠原病の皮膚病変のほとんどを診ることができた。関連病院のひとつ、Hospital For Joint Diseaseでは20階建てビルのすべてが関節疾患の病院だった。もちろん学術的な要求レベルはきわめて高く、精神的にも肉体的にもハードな毎日だったが、そういう場に身を置いているということ自体がエキサイティングで、何ものにも替えがたい喜びとやる気に満ちた日々だった。

米国での臨床研修の魅力とは

岸本暢将氏の著書『アメリカ臨床留学大作戦―USMLE,CSA,英語面接を乗り越えた在米研修医のなんでも体験記』(羊土社)の書影には、ハワイ大学3年次のレジデント医学生(右前)と、1年目インターン(左前)との写真が使用されている

- ハワイ大学内科プログラム同僚・オリエンテーションにて
- ハワイ大学内科プログラム同僚と
- NYUフェローシップ時代同僚と
- Fellowship終了後 ACR Distinguished Fellow Award授賞式

聖路加国際病院リウマチ膠原病センター 医長
岸本 暢将(きしもと・みつまさ)先生

1998年 北里大学医学部卒業
1998年 沖縄県立中部病院にて内科研修
2000年 在沖縄米国海軍病院にてインターン
2001年 ハワイ大学内科研修医
2004年 ニューヨーク大学リウマチ科フェローシップ
2006年 亀田総合病院 リウマチ膠原病内科
2006年 米国リウマチ学会「Distinguished Fellow賞」受賞
2009年 聖路加国際病院 リウマチ膠原病センター

(2018年3月取材)