今より少しでも良くなった社会を残し、死ねればいいなと思う。医師は、そんな思いを叶えられる仕事のひとつではないだろうか。
紛争地域や貧困国を舞台に活躍する医師の姿を見て、尊いと思わない者はいないだろう。瞬時憧れを持った子供時代を持つ者は、多いはず。ただ、「将来、海外で医療貢献するための医師育成プログラム」は、日本にはない。そこで、なり手の数は限られるし、なろうと願って挫折する若者も多い。
楢戸健次郎氏は幼い頃に憧れたシュバイツァーのようになるために、独力で学んだ。医局も病院も、家庭医などより臓器別専門医をと考える逆風の時代に、自分で考え、工夫し、目指す総合的な臨床力を鍛えた。そして、ついに海を渡った。
現在もネパールを舞台に地道に国際医療協力を進めるその姿から、学ぶべきことはあまりに多い。
日本の昭和初期を彷彿とさせる赴任地の医療状況。医師が辺境地に行きたがらない理由がある。
楢戸健次郎氏は2005年から日本キリスト教海外医療協力会(以下、JCOS)から派遣され、ネパールのキリスト教団体(HDCS)を介して同国での海外医療協力に従事している。
2011年にはJCOSを辞し、NGO「クロス」として引き続きネパールで活動中だ。
活動の地は首都カトマンズから飛行機で約1時間のルクム郡チョウジャリという人口4,000~5,000人の町。同地唯一の病院であるチョウジャリ病院で臨床と人材育成、運営強化に取り組んでいる。
「ネパールにはHDCS管轄の病院が3つありますが、『中でももっとも人が行きづらいのが、チョウジャリだ。君が行ってくれ』と申し渡されて、赴任しました(笑)」
現地の医療事情について。
「チョウジャリは、いまだ『おしん』の時代の様相ですね。赴任数年後に調査をしてみたのですが、病院の外来に来るには徒歩で平均6時間程度。遠いところからの患者さんは、3日、4日、中には1週間かけて病院に来ていました。日本にあてはめれば、昭和初期くらいに相当すると思います」
志をいだいて海外医療協力に従事する医師にとっては、文字通りやり甲斐ある土地ということだろうか。
「私たちの最終的な願いは、海外からの協力なしでも充実した医療が提供できる日の到来です。いかにすればそんな日がより早く来るかについて思案しながら、日々の活動に励んでいます」
具体的にはどんな問題があるのだろう。
「ネパール政府による長年にわたる医学教育への努力は、現在徐々に実を結び始めていて、優秀な医師の数は着実に増えています。ただ、たとえば、根深い課題のひとつとしてあげられるが地域格差です。首都カトマンズだけを見れば、医師数も医療機関数もかなり充実しています。ただ、それはカトマンズだけ。一歩地方に出れば、前述のような、日本の昭和初期のような状況なのです」
医療の地域格差は、日本にもある。
「格差のコントラストが、日本の比ではないということですね。まず、医学部に通える資力のある家庭が首都に集中しており、医師になった若者がそこに留まりたがるわけです。さらに言えば、苦労してやっと医師になったのに、わざわざ不便な田舎になんか行きたくないという本音。これは、日本の若手医師にも垣間見られることですが、彼の地では『田舎行き』のリスクの質が、ひとまわり大きい。
時として、辺境地への赴任は、『命のリスク』まで意味するからです。実は、私の赴任地であるルクム郡がまさにそうで、ここは、長く政府と内戦を戦った共産主義グループ(毛沢東主義の武闘派)の発祥の地。この地域への赴任は、もし当人が了承したとしても、家族がなかなか許してくれない。そんな実情があるようなのです」
ネパール政府も手をこまねいているわけではなく、地方の医療の充実には様々な施策を投じている。
「しかしまだまだ道半ば、帳簿上は赴任していることになっているが当の医師はどこにも見あたらない。そんな状況を脱却するのにかなり苦心しているようです。
おのずと、空いた穴を海外医療協力で補って欲しいということになる。私たちへのニーズは、当分の間低減することはなさそうです。ちなみに、私たちがカトマンズで医療をしたいと申し出ても、120%、ノーサンキューの返事が来ますよ(笑)。首都だけは、とにかく医療が満ち足りています。ネパールという国の医療は現在、そんな状況下にあります」
個人的な興味は、タイの都市問題に。しかし、要請主義の行動原理のもと、ネパールに赴任。
楢戸氏とネパールの縁(えにし)は、どこに。
「これは、たまたまというのが実情です。JCOSは、要請主義という行動原理を守っていました。協力を請うNGOから出た要請に従って医師を派遣するということです。そこに、医師本人の希望は一切差し挟めません。私が海外医療協力を決意した時に、たまたまネパールから要請があり、お受けすることになりました。幸いにしてそれまで何度か渡航経験があり、とても好きな国のひとつでしたので、妻と相談し、すぐに、受諾の返事ができました」
もし、通るならば叶えたい希望はあったのだろうか。
「個人的な希望は、タイでした。タイの、都市のスラムに赴任してみたいという願望がありました。海外医療協力というと自動的に過疎地域がイメージされることが多いですが、医療後進国には深刻な都市問題もあるのですよ。機会があれば、取り組みたいテーマでした」
海外医療協力という言葉には、聴診器ひとつ持ってとにかく駆けつける熱血医師のイメージがついてまわる。楢戸氏と話してみると、それが貧しいステレオタイプであると痛感させられる。目の前の患者に愛情を注ぐのは当然だが、赴任国、赴任地の実情を正しく理解し、考察できなければ実りある貢献は叶わないのだ。協力を求める国には辺境地の問題があるのは当然だが都市問題もあるのではと考える見識の深さには、恐れ入るばかりだ。
「たまたま」赴任することになったネパールの医療事情については、もちろん10数年の時間を無駄にすることなどなく、すでに日本でも有数の知見を持つ医師となっている。
「もうひとつ、頭の痛い問題をあげるとしたら頭脳流出でしょうか。ネパールの人は、基本とても優秀、頭脳明晰です。ですから留学すると、留学先で帰国せず留まるよう声をかけられてしまう。医師の給与をドル建てで比較すれば、留学先と母国では数十倍、数百倍の開きがあるわけですから、なびいてしまっても仕方ないですよね。本当に悩ましいことです」
帰国中は講演活動で多忙であると側聞していたが、この人物が、ネパールに関して、海外医療協力に関して多くの聴衆を集めるのは当然のことだと思えた。
まずは、野口英世に。のちにシュバイツァーに感銘を受け、目標に定めた。
楢戸氏はひと味違う子供だったようだ。
「3~4歳の折に親に読み聞かされた野口英世の伝記に感銘を受けて、将来、彼のような細菌学者になりたいといっていたようです」
将来の夢は、「お医者様」ではなく「細菌学者」だったとのこと。
「かなり早い時点で、『僕は、細菌学者になる』と宣言したそうです。本人はあまり覚えていないのですが(笑)」
端緒はおぼろげでも、志は定まっており、細菌学者になる自分の人生を疑うことなく小学校時代を過ごした。一大転機は、中学校1年生の折に訪れた。
「シュバイツァーの著作を読み、海外医療協力の存在を知りました。そして、方向転換をしました」
中学1年生にして、野口英世からシュバイツァーに方向転換。子供特有の移り気ではない、なにしろその決意は、その後寸分もぶれることなく、実現されているのだから。
特別な目標がなければ、中学、あるいは高校を出て働きなさい。ただ、目標があるなら応援するからがんばれ
「早熟ですね」との問いに、「ちょっと早熟だったかもしれません」との返答。聞けば家族、親族に医師がいるわけでもなく、ただただ幼い決意を温め、育み、行き着いた結果のようだ。意思の力は、並大抵ではない。
「両親の教育方針には、感謝しています。基本方針は『学校は中学だけでもいいよ』。特別な目標がなければ、中学、あるいは高校を出て働きなさい。ただ、目標があるなら応援するからがんばれとのことでした。言葉どおり、私の医師への夢は、しっかりとサポートしてくれました」
現代の、とある競技世界の第一人者の言葉が脳裏をよぎる。
「この分野は、努力3割、才能7割です。私は、この場合の才能には、本人の生まれ持った資質に、親の理解とサポートも加わると思っています。資質が遺伝であっても、突然変異だったとしても、やはり親の存在は、とても大きいです」
3歳にして細菌学者を宣言した聡明さが遺伝なのか突然変異なのかはさておき、父君の導きとサポートが秀逸だったのは確かだろう。もちろん、そこに本人の努力あって現在だ。医師への道のりは、努力3割、才能7割よりは幾分努力の比率が高いだろうが。
医学部で勉強に専念するために、準備したこと。
千葉大学医学部に入学してのち、したことは? の問いに、簡潔な返答があった。
「勉強しました」
それだけではけんもほろろなコメントに聞こえてしまうが、伏線がある。
「医学部に進学するにあたっては、体力をつけ、社会性を身につけてから進みたいと思いました。ボーイスカウトや運動の部活で体を鍛え、社会性を育むためにクラブ活動や家庭教師に勤しみ、教会にも通いました。1年間の浪人中には、毎日図書館に足を運び、本を読んで『海外医療協力』が正しい目標なのかをじっくりと再確認しました。
入学までに勉強以外の準備をいろいろとしましたので、入学後は勉強に集中することができました」
「神童」という言葉ではむしろ軽すぎる。夢を実現するために、ここまで周到に、丁寧にステップを刻める学生がいるのか! ティーンエイジャーということを加味すれば、驚きを通り越して畏怖の念が湧いてくる。感嘆、その一言である。
自分のやらないことは、他にやる人がいるので気にしない。
楢戸氏が21歳の1966年に、アメリカに「家庭医ルネッサンス」と呼ばれる動きが生まれたのをご存じだろうか。臓器別医学に警鐘を鳴らし、地域に密着した家庭医を充実させるべきだとの提言を展開した「ミリスレポート」が発表された年である。ちなみに、日本は、アメリカから輸入された臓器別医学が勃興期から隆盛期にさしかかる頃だ。
臓器別信奉から家庭医(総合医療)の重要性に目を向ける動きは、たった今の日本の医療状況そのもの。単純比較で約50年前にはアメリカは気づいていたわけで、単純計算で日本は50年の後れがあると言えることになる。 50年前、楢戸氏はミリスレポートとその周囲の動きを知っていた。図書館に通い海の向こうの最新動向をしっかりとキャッチしていたのである。
「それを知り、私の夢である海外医療協力に必要なのは、家庭医になることなのだと明確になりました」
振り返ってもらった。
「はい、そうですね。当時、どの講座の教授に『家庭医になりたいのです』と申し上げても、『なんじゃ、そりゃ。いいから、うちの医局に来い』と返されたものです(笑)。
自分で学ぶしかないと、すぐに覚悟が決まりました」
医学部1972年卒の世代で、在学中から家庭医の重要性に気づいていた者は皆無ではないのか、先駆者ではないかと水を向けた。
「実践者としては、かなり早かった方だとは思います。ただ、先駆者は言い過ぎですね。教育者として家庭医を重視すべきと発言していた教授はいらっしゃいましたし、世界に目をむければ立派な先駆者がたくさん実在しましたから。
日本に限っても、岩村昇先生(『ネパールの赤ひげ』として有名)という大先輩がネパールで素晴らしい業績を残しておられました」
岩村氏とはのちに面識を持ち、交流を続け、「私の代わりにネパールに来てくれ」と冗談を向けられるような間柄になったとのことだ。
素朴な疑問が湧いた。時流にそぐわない夢、時流に乗らない歩みに不安はなかったのか。
「不安も悲壮感も、ありませんでしたよ。これは、性格と思うのです。『自分のやらないことは、他にやる人がいる。だから、自分の目標に邁進すればいいのだ』という達観に近い感覚が、あるのです。高校生の頃には、私の行動原理のようなものになっていました」
地域がひとつの病院だ。道は、廊下だ。ご家庭が病棟だ
ここまで記事を読み進めば容易に想像がつくはずだが、周囲が家庭医の存在さえ知らない環境のなか、卒後、独力で研修プログラムを構築して学んでいった。
「文献を紐解くと、海外の医療制度下ではおおむね、3年で家庭医としてひとり立ちする研修プログラムがスタンダードのようでした。3年で何を学ぶかを自分なりに組み立てました」
結論から言うと、多くの助言者、協力者の力を借りて実践した研修は7年半を要した。
相談の端緒となったのは、所属していた日本キリスト者医科連盟に集う先輩医師たちだった。楢戸氏はクリスチャンである。大学1年生時に洗礼を受けている。そしてその年に同団体にも加入している。
「連盟の先輩に誘っていただいた救世軍ブース記念病院での内科研修を皮切りに、札幌琴似ルカ病院(現 イムス札幌消化器中央総合病院)、恵庭西部病院、江別市立病院、久保田産婦人科病院、武蔵野赤十字病院などで、小児科、外科、麻酔科、整形外科、産婦人科、皮膚科などの研修をさせていただきました」
研修終了後には、先輩の誘いを受けて北海道新冠国保病院に勤め、4年半の勤務。
1984年、北海道栗沢町からの要請に応える形で、同町に栗沢町美流渡(みると)診療所を開設した。
「長い間思い描いていた家庭医像を具体的に形にしてみるにはよい機会と思い、お受けしました。結果的に21年いることになりましたね」
福島県生まれ、茨城県育ちながら、現在は「北海道が地元なので」が口癖の楢戸氏。北海道は、医師としての成長を受け止めてくれた第2の故郷となっているようだ。
「美流渡では、『地域がひとつの病院だ。道は、廊下だ。ご家庭が病室だ』と考え、患者さんには居心地のいいところにいていただいて、サービス提供者である私たちが移動する医療を作り上げました。今現在も、同診療所ではその精神を引き継いでくれています」
医師になった方々それぞれが、多くのニーズ、様々な分野の中から『これだ』と思えるものに出会ってほしい
そして21年後に、いよいよネパール赴任ということになる。
「実は、JCOSとの関係は医学生時代からのものです。以来ずっと、ボランティアとして医師を海外に送り出す仕事のお手伝いを続けていました。その間10年ほど、常務理事も務めています。遠い国に赴く医師の方々もご苦労ですが、送り出す側の仕事も山ほどあります。海外医療協力への情熱は一度として冷めたことはありませんが、裏方の責務を務めるうち、この立場でまっとうするのもありかもしれないと思うようになっていました」
たしかに、そうだろう。いかに情熱に満ちた医師が数多くとも、それを齟齬なく送り出し、帰郷までをつつがなくプロデュースする仕組みなくしては、膨大な情熱がカラ回るだけだ。目立たないところで汗を流す貢献者は、必須である。
ちなみに、「タイのスラムへの問題意識」は、送り出す側として多くの国の実情を見聞する中で、自らへの反省のひとつとして醸成した視点なのだそうだ。
そんな裏方貫徹への決意が、「送り出される側」に揺らいだきっかけは?
「卒後30年ほどかけていろいろな努力を続けてみると、私たち世代の働きが報われたようで、若い世代にかなりの数の家庭医が育っていました。そんなある日、先に述べた性格、行動原理の考えが頭をもたげたのです。『国内は若い方々に任せられそうじゃないか。では、今の自分がすべきことはなんだろう』と。
周囲に、『送り出される側』を体験してみたいのだけどと打ち明けると、皆、異口同音に『どうぞ』と言ってくださったので、決心がつきました」
努力と才能の両方に長けた神童が30年かけて培ったものが、ネパールの地で通用しないはずはなかった。2018年の現在、楢戸氏の存在はもう、日本とネパールの医療にとってかけがいのない架け橋となっている。今後の目標について聞いてみた。
「よく『活躍』などという言葉を使っていただきますが、70歳を超えた私が主役になるのは間違っていると思います。自覚の中では、私はもう主役ではありません。大切なのは、主役たる次の世代の人々なのです。ですからここから先の私の活動は、すべて『バトンタッチ』のためのワーキングです。ネパールで、日本で、次の世代を育て、引き継いでいくことが使命と思っています」
そんな若い世代へのメッセージを請うた。
「世界に目を向ければ、医療、医学へのニーズは果てしなくあります。未開拓な分野もたくさんあります。私は、海外医療協力が一番だなどとは思いません。先端医療でもいいし、地域医療でもいい。医師になった方々それぞれが、多くのニーズ、様々な分野の中から『これだ』と思えるものに出会い、一心不乱に邁進できることを願っています」
ここまでの医師人生を振り返っての感想は。
「最近、自己分析できたことがあります。それは、自分が、『今より少しだけでもよくなった社会を残し、死んでいく』を望んでいること。『社会を残し』が不遜ならば、それにちょっとでも貢献できたと思えるがんばりをして、でしょうか。幸いにして、自分が選んだ医師という道は、それが可能な職業だと気づきました」
あまりに愚問と思え、達成感への質問はそっと取材ノートに挟み、隠した。いきいきとした笑顔を見れば、日本語を解さない国の民にでもわかる明快な回答がそこあったからだ。
1990年ごろ 美流渡診療所診察風景
1992年ごろ 美流渡診療所前にて
2000年ごろ 研修医たちと美流渡診療所デイケア
2000年ごろ 栗沢町美流渡診療所研修の医学生と
2000年ごろ 岩見沢ファミリークリニックにて英国の家庭医の訪問を受ける
2000年ごろ 栗沢町美流渡診療所診察風景
楢戸 健次郎先生
1945年 茨城県水戸出身
1972年 千葉大学医学部卒業
1972年 「家庭医」の研修を東京、北海道で行う
1979年 北海道新冠国保病院勤務
1984年 北海道栗沢町美流渡診療所開設(委託開業のちに医療法人へ)
2005年 日本キリスト教海外医療協力会から派遣されネパールへ
2011年 NGO[クロス]として、引き続きネパールで活動中
(2018年1月取材)