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2016.11.24

諏訪中央病院 総合内科/院長補佐 (※2015年取材時) 山中 克郎先生

女神の前髪を掴み大成した総合診療医が、諏訪に庵を結び、成し遂げようとしている臨床医の本懐、そして地域医療。

女神の前髪を掴み大成した総合診療医が、諏訪に庵を結び、成し遂げようとしている臨床医の本懐、そして地域医療。

総合診療科の領域に「その人あり」といわれた山中克郎氏が、あっさりと教授職を辞して一臨床医として長野県の諏訪中央病院に転籍したことに驚かされた関係者も多いはず。山中氏は、残りの医師人生を地域医療に取り組み、臨床医として燃え尽きることを望んで大いなる転出を実行した。その思い、構想を肌で感じ、伝える使命を感じ、取材を申し入れた。

救急総合内科の立役者たる教授が、一診療科スタッフとして転籍した理由は

2014年12月、藤田保健衛生大学救急総合内科教授の山中克郎氏は教授職を辞して、長野県茅野市・原村・諏訪市の組合立である諏訪中央病院に転籍した。救急総合内科は2010年に山中氏が立ち上げた講座で、ER救急と総合内科を融合させた臨床と教育で目覚ましい成果をあげていた。そんな気鋭の講座の要の人物が、あっさりとポジションを離れ地域医療に身を投じたいきさつには多くの関係者が驚きの声をあげた。
「55歳を迎えた自分が第一線でバリバリと活躍できるのは、あと10年くらいだろうか。振り返れば、病棟総合診療、救急医療、外来診療という3つの分野は経験してきたが、もうひとつの大切な総合診療領域である『地域医療』はまだ経験していなかった。そう気づいたとき、医師として残りの人生を賭け、地域医療の充実に取り組みたいという結論に達したのです」

本人は、特別なポジションなしで一総合内科医師として勤務することを望んだが、病院から贈られた院長補佐の肩書きを固辞することもなかった。
「副院長と間違われることもありますが、そのポジションには実力、実績申し分ない先生が複数、ちゃんと就かれています。ですから、この肩書きは、飾りみたいなものです(笑)。自覚としては診療科の一スタッフでしかありません。

任された外来担当日に患者さんを診察し、研修医と触れあいながら、日々、地域医療のなんたるかを学んでいるところです」
2016年4月に発生した熊本地震に際しては、諏訪中央病院からの医療支援メンバーのひとりとして阿蘇医療センターに駆けつけた。同地での医療活動を通して、多くの感銘と学びを得たという。
また、学ぶ姿勢は言葉だけではない。最近、友人たちと『野獣クラブ』なるFacebook勉強会を開設し、「野獣のごとく、むさぼるように勉強を続けよう」を合い言葉に、全国各地で行われる症例検討会や勉強会の要約を共有している。
「50歳を過ぎてから、医学を学ぶことの楽しさ、知識を得ることの楽しさを改めて知ったような気がします。そんな野獣の本能は、今も日ごとに強くなっています(笑)」
本人の口からは、何度も「引退」という言葉が出る。総合診療医として道を開いてきた時間を、教授職をまっとうするところで一旦区切る意味で使う表現のようだが、目の前では、「野獣のような」現役臨床医が笑っているのである。

庵を結び地域医療を学び、存分にライフワークに傾注する充実の日々

諏訪中央病院勤務となってからは、週に1回の頻度で訪問診療を行っている。

「庵を結ぶ」――『方丈記』では隠遁生活を意味して使われていたようだが、それは、学術や芸術を極めるための生活を指す比喩でもある。教授職を辞し、一見、隠遁生活に入ったように見える山中氏だが、実は「極める」ために諏訪の地に庵を結んだようだ。事実、今、何に興味があるかとの質問には、淀みのない答えが返ってきた。

「現在もっとも興味を持っていているのは、医学を一般市民に向けてもっとわかりやすく情報発信できないかということです。そのために、金、土、日曜日とある週末の休みは、執筆や教育活動に割いています」
日本独特のフリーアクセスのせいで、医療機関には患者が溢れ、勤務医を押しつぶしかねない状況が、いまだにある。

「そんな中には、明らかに受診の必要のない方も混じっています。だからといって、医療機関の門を叩くのに高いハードルを設けるべきだという意見には賛同できません。患者さんは皆、不安だから医師を頼るのですから。決して間違った行動とは思いません。

無闇な不安に陥らないための知識、生まれた不安を取り除く仕組みがあれば不要な受診は減らせるはずです。そんな方向で、なにがしかの貢献ができればいいなと考えているところです」
医学界と一般市民の間に立つ、トランスレーター(翻訳者)、あるいはスポークスマン(広報担当者)といったところだろうか。
「ジャーナリストの池上彰さんが、政治や世界情勢をわかりやすく解説し、とても高い評価を得ていますね。具体的なイメージとしては、ああいった活動が近いように思います」

表向き学府の職は離れ、本人の口からも「引退」の2文字が発せられるが、その実、医学者、医療人としての前進はまったく止まっていない。沈思黙考に割ける時間を多く確保し、ライフワークに力を注いでいるのである。結んだ庵から、今後、様々な成果が発信されるはずだ。

人を信じ、徹底的に学ぶ特質を武器に、総合診療の道を拓き、進んだ

1959年生まれ。医師を目指すきっかけがあったとしたら、母方の祖父が内科開業医だったこと。幼少時代は診療所の診察室が遊び場だった。ただ、少年時代にもっとも憧れた職業はパイロットで、視力が決定的に悪くならなければ、そちらの道に進んだ可能性が高いという。
「医師への憧れは、テレビドラマで白血病に罹ったヒロインがハンサムな医師を頼る様を見て、『あれ、かっこいいな』と思ったレベルです(笑)」

2年の浪人を経て、名古屋大学医学部へ。
「研究成果や意欲的な臨床研修制度で全国的に評価が高い学校だということは、入学後に知りました。入学前の志もその程度で、入学後も決して優秀な医学生ではありませんでした」

成績が思わしくなかったのも事実のようで、自嘲と謙遜の多い自己紹介だが、ひとつだけきっぱりと自負した自己分析があった。
良い意味で人の影響を受けやすい。尊敬できると思う人に出会ったら、徹底的にその人を信じ、その人から学びます。私がその後、医療の世界でそれなりに仕事を成せたのは、この特質を持ち合わせたからだと思います」

研究者への道を歩んだが、8年を経て、自分の中に「臨床への願望」があることを知る

最初の出会いは、医学部4年時に訪れる。
夏休みに、血液内科医の珠玖(しく)洋教授の研究室を見学した。珠玖氏は、ニューヨークのスローンケタリングがんセンターの留学から戻って来たばかりだった。
「とにかく、ものすごく、かっこよかった。2年間の臨床研修を終えたら、アメリカに行って珠玖先生のような研究者になろうと決意しました」

奇しくも、テレビドラマで憧れた「白血病を診る医師」になった。ただし、珠玖氏の後を追うとなれば、研究医になったはずなのだが……。
「8年間大学に籍を置き、研究し、学位を取得する中で、『外に出たい』、つまり『臨床で患者さんを診たい』という欲求が自分の中に湧いているのがよくわかりました」
医局に希望を出し、決まった勤務地は、名古屋市内の名城病院。たったひとりの血液内科医として勤務したが、血液内科にはほとんど患者が訪れず、他疾患の治療ばかりの日々が続いた。
「2年が経った頃、初めて急性白血病の患者さんが来ました。18歳の女性でした。私が主治医になり3ヵ月間、休み返上で治療に当たりました」
結論から言うと、この患者は奇跡的な回復をみせ、完治して退院していった。
ただ当時、同院には白血病に関して相談できる医師がいなかったため、すぐ近くにあり、血液内科医が多く在籍する国立名古屋病院(現:国立病院機構名古屋医療センター)に勉強に通った。
「血液内科の症例検討会に毎週参加させてもらいました。いつも最後に、私の症例報告をするのですが、ベテラン医師からのアドバイスがとても役に立ちました」

ちょうどそのころ、同院ではHIV診療を始めようとしていた。血液内科医の増員が必要だった。
名城病院から熱心な若い医師が勉強に来ていることを知った内科部長が、「君よかったら、うちに来ないか」と山中氏を誘う。それが、内海眞氏だった。次なる出会いである。

幸運の女神の前髪を掴むべきとの直感

1998年、国立名古屋病院に転籍。着任してそれほど時間も経っていないある日の夜、医局に残っていた山中氏に内海部長から電話が入った。
「山中君、アメリカに1年間留学して、総合診療を勉強してこないか」
当時、厚生省(当時)は臨床研修制度を大幅に見直し、プライマリ・ケアを中心とした幅広い診療能力の習得を目標と定めた。その教育のために必要な人材育成を始めようとしていたのだ。「総合診療」という分野で先行しているアメリカで若手医師を学ばせるため、留学制度を施行した。

基本的に、興味の持てる打診だった。ただし――
「行くかどうかは、翌朝までに決めてくれ」
唖然とした顔が、目に浮かぶ。

「でも、その瞬間、以前から好きだった言葉が頭をよぎりました。レオナルド・ダ・ビンチの言葉と言われています。『幸運の女神に出会ったら、必ず前髪を掴め』――彼女が振り向いてしまったら、後ろ髪は禿げていて、ないのだぞという金言です。
前髪を掴むべきだと直感しました」

生涯の師との出会い。持ち帰った財産のひとつは、「攻める問診」

一晩で決めろという無理難題を決めてみせると、次には留学先は自分で決めろという難題が待ち構えていた。ただ、ここで、それ以前に成立していた出会いが奏功する。短期の研修で勤務した国立国際医療センターで知遇を得た感染症の大家/青木眞氏を頼って相談すると、すぐに電話してくれたのである。

電話の相手は、“診断の神様”として高名なカリフォルニア大学サンフランシスコ校(UCSF)内科学教授のローレンス・ティアニー氏だった。インパクトの大きさという意味では、おそらく山中氏の人生最大の出会いである。
「受けた教えの絶大さは、言い出せばきりがありませんが、たとえば聴診。先生のもとで聴診法を学ぶと、聴診器は使っていましたが自分がそれまでまったくまともに音を聴けていなかったことを思い知らされました」

内科全般、しかも血液内科、循環器科、呼吸器内科、消化器科など、細分化された診療科にも詳しく、内科であればどんな疾患でも鑑別診断できるといわれる伝説的な臨床医。
「ティアニー先生には強く傾倒し、発せられた言葉はすべて書き取る意気込みでメモをとり続けました」
留学中のメモをさらに調べ直し講義ノートとして整理したものは、後に『UCSFに学ぶ できる内科医への近道』(南山堂)として出版されている。

ティアニー氏より伝承された鑑別診断法をベースに、山中氏は「攻める問診」を確立し、実践していった。「攻める問診」とは、問診の最初の3分間を勝負と心得て、まず患者の心を掴み、浮かび上がった鑑別診断をさらに絞り込むために行う積極的な問診法のことである。山中氏のもとでこのメソッドを学んだ多くの総合診療医が、その後全国に旅立っていった。

1990年、リサーチフェローとして在籍したバージニア・メイソン研究所(アメリカ・シアトル) で。

創意工夫が師よりの伝承を生かし、日本の総合診療科の礎をもたらした

1年間の留学を終え、国立名古屋病院総合内科の牽引者として帰国した山中氏だったが、同院での総合内科を軌道に乗せるには想像を超えた困難が待ち受けていた。当時、行政の旗振りもあって日本全国に一斉に立ち上がった総合内科は、すべからく同様の困難に遭遇していた。他科とのコンセンサスが、形成されなかったのである。患者の取り合い、あるいは押しつけ合い。成立して長い歴史がある臓器別の縦割りの概念が、役割分担として総合内科を組み入れることができないでいた。

ここでへこたれていたならば、山中氏にはまったく違ったキャリアが待っていたはずだ。しかし違った。困難を乗り切る新機軸となる着想を見出した。
「救急室というのは専門の先生方がまったく寄りつかないため、総合内科とはバッティングしません。救急を勉強すれば、そこでプライマリ・ケアを教育できるのでないかと考えました」
この創意工夫がなければ、ティアニー氏から伝授された最高峰の診断術も立ち枯れたことだろう。“スマイリー”のニックネームで親しまれる山中氏の柔和な物腰の裏にある、執念や情熱の熱さがうかがい知れる。

国立名古屋病院から名古屋医療センターと名称が変更された頃には、同院の救急・総合内科の評判は全国に広がっていた。

『死のその瞬間まで、臨床医でいたい』という思いを胸に、日々を歩む

山中氏の実績を評価し、准教授として招聘したのが藤田保健衛生大学だった。山中氏は、国立名古屋病院血液内科入職から数えて8年目の年に、転籍した。同大学では准教授を4年、教授を4年務めた。
「結果的に、私には8年周期のサイクルが巡ってくるようですね。諏訪中央病院での勤務も『まずは4年』、成し遂げたいと思っています。
現在の私には、『死のその瞬間まで、臨床医でいたい』という思いがありますから、できることならここでそんな瞬間を迎えたいものだと念じています。寿命にまつわることですから、どんなエンディングが待っているか想像もつきませんが(笑)」

現れた女神の前髪を逃さず、女神の愛情をたっぷりと受け取った気鋭の医師が、10数年後に諏訪に結んだ庵からは、どんな人烟(じんえん/炊事の煙)が立ち上ってくるだろう。時折、麓に近づき山を見上げてみたい。
最後に、後を追う若手医師たちへのメッセージを発してもらった。
「仕事も、勉強も、まずは楽しんで、前向きにいてほしいと思います。がんばっても評価してもらえない、取り組みがうまくいかないという局面もあるかもしれません。ですが、決して諦めないでください。そのがんばりは、必ずどこかで実を結ぶはずです。自分を信じることが何よりも大事です」

病院見学の医学生に、ベッドサイドティーチングを実施する風景。

諏訪中央病院 総合内科/院長補佐
山中 克郎先生

1985年  名古屋大学医学部卒業
名古屋掖済会病院 研修医
1987-1994年  名古屋大学大学院医学系研究科
1989-1993年  バージニア・メイソン研究所(アメリカ・シアトル) 研究員
1995年  名城病院
1998-2000年  国立名古屋病院 血液内科
1999-2000年  カリフォルニア大学サンフランシスコ校(UCSF)一般内科
2000年  国立名古屋病院 総合内科
2004年  国立病院機構名古屋医療センター総合診療科(組織変更による)
2006年  藤田保健衛生大学 一般内科/救急総合診療部 准教授
2010年  藤田保健衛生大学 救急総合内科 教授
2014年  諏訪中央病院 総合内科

(2015年12月取材)