ドクターヘリは奄美の空へ。 自衛隊医官時代のノウハウを生かし、 最高の離島救命救急センターを築きたい。
医師人生の本懐は、100人の医師がいれば100通りあっていいだろう。ここに、「レールに乗らない」医師人生を標榜し、実践した医師がいる。鹿児島県立大島病院の救命救急センター長を務める服部淳一氏がその人だ。勤務した病院がより良くなるのであれば、何でもする。「レールに乗った」医師ではできないこと、できない判断を繰り返し、豊穣なる実りを得ようとしている人物の、本音、心境、未来構想に刮目されたし。
離島では日本初の本格的救命救急センターの開設、運営を任される
奄美群島の奄美市名瀬。2014年6月、鹿児島県立大島病院に、離島では日本初の本格的な救命救急センターが誕生した。新施設は、鉄筋コンクリート7階建て、延べ床面積4,400㎡。病院本館と2階部分で連結し、屋上には患者搬送用のヘリポートを設けた。
2016年12月には、ドクターヘリも就航。南海の島嶼地域を舞台に、それまでの常識を覆す高レベルの救急医療を展開している。
同センターの初代センター長を務めるのは、2008年以来、麻酔科部長として活躍していた服部淳一氏。2013年には救命・救急センター設立準備室長を引き受け、立ち上げ当初から長くプロジェクトの中核を担ってきた人物だ。
「一般的に、救命救急センターは人口20万医療圏にひとつあればいいという試算が参照されます。群島すべての人口を合算しても11万人程度の奄美になかったのは、そういう意味では当然なのです。
私は、あらかじめ救命救急センター設立計画を念頭に、当院に移籍しました。『そういう計画がある。一緒にやらないか』と声をかけ、招聘してくださった前院長(小代正隆氏)は、常識的な論理に逆らう無謀な計画の首謀者だったと言えるのかもしれません。誘いに乗った私も、もちろん同罪です(笑)。
しかしそこには、『奄美の救急医療をなんとかしなければ』との信念があり、情熱がありました。時間もかかりましたし、途上逡巡することもありましたが、最終的に、計画は目論見として正しいと証明できたと思います。開設以降、しっかりと地域への貢献が果たせていると実感します」
「奄美で病気になったのだから、諦めよう」といったことがあってはならない
救命救急センターは2016年には年間約2,000件の救急車搬入を受け入れるまでに育った。
「歴史的な背景がそうさせるのだと思いますが、奄美群島には穏やかで、あるがままの運命を受け入れる独特の気質が見てとれます。『本土なら助かったはずなのに』という病気や怪我に際しても、『そのまま』を受け入れる事例を見かけるにつけ、地域の伝統に畏敬の念をもちながらも、残念なことだと思わされたものです。
私は、『奄美で病気になったのだから、諦めよう』といったことがあってはならないと思います。当院の救命救急センターは、少なくとも私にとっては、そんな思いを形にしたものなのです」
そんな思いをさらに高レベルで具現化できる局面も訪れた。2016年12月27日に、念願だったドクターヘリの運航が開始されたのである。運航開始初日にさっそく初の出動要請があり、地元の南日本新聞には「奄美ドクターヘリ初出動 徳之島の患者、鹿児島大学病院に」との見出しで報じられた。
「患者さんは、当センターに縁あるお子さんでした。先天性の代謝異常(通常、生まれて数カ月で亡くなってしまう)があり、普通なら高度最先端医療がある鹿児島大学で入院、治療を行うのですが、いずれ亡くなる命なら自分たちの島(徳之島)でなるべく一緒に過ごしたいとの両親の希望から、当院、徳之島の病院、鹿児島大学が協力し、島で多くの時間を過ごせるように協力していました。私も何度か診察しました。
残念ながら運航開始日の数日前から体調が悪くなり、そのお子さんが奄美ドクターヘリの1人目の搬送患者となりました。それには運命的なものを感じますし、記憶に残る事例で運航をスタートできたことには感謝の念をいだきました」
防衛医科大学校出身。レールに乗るのではなく、自分の力で医師人生を切り拓こう
1990年、防衛医大学生時代(大学2年生)。富士演習場にて
服部氏は北海道出身。教師の息子で、出身医学部は防衛医科大学である。もちろん、医官として、卒業後9年間の義務年限をまっとうしている。
幼少期の思い出。
「小学校低学年の頃まで体の弱い子で、年に1ヵ月は有床診療所に入院しているような状況。学校で学んだ時間よりも、病室の白い壁を眺めていた時間の方が長い子供時代でした。大人になり、当時何度も診ていただいた診療所の先生にご挨拶にうかがうと『あなたは、大きくはなれないのかもと思っていました』と言われました(笑)。
幸いにしてその後健康になり、剣道小僧を経て今では立派なマリンスポーツ派おやじになりましたが(笑)、そんな経験のせいか、世間への恩返しとして医師になろうとの気持ちは、いつの間にか自然に形成されて行きました」
2004年、自衛隊札幌病院オペ室。15年間働いた自衛隊退職時
自衛隊医官出身である点について。
「自衛隊所属の時間があったことで、とても良い経験ができたと思っています。医師として、人として成長できる貴重な出会いがたくさんありました。
特に医師としてのキャリアに関しては、教授職を目指すような方向ではなく、ずっと臨床現場にこだわって歩む方向性を見出すことができました。レールに乗るのではなく、自らの力で自らの医師人生を切り拓いて行きたい。そんな志向を、しっかりと固めることができました」
思い返せば、進学選択時にも「レールに乗る医師人生」について考えた。
「防衛医科大学合格時には、別の医科大学にも合格していました。どちらを選ぼうかと考えた時、一般の医学部に進むということはつまり、大学医局の勢力圏に身を置くことになるのだなと思えた。入学した瞬間から医局の決めたレールに乗って歩むことを求められるようなイメージが、そちらに進むことを思いとどまらせました。
『レールに乗りたくない』という価値観で判断した、最初の場面だったように思います」
麻酔科専門医が地域医療や救急医療の担い手になれる理由
医局の呪縛を嫌い自衛隊医官の道を選択した医師が、『レールに乗った』医師群とは毛色の違う医師に育つのは想像に難くない。服部氏は、専門科を麻酔科とし、専門医資格を取得し学位もとった。しかし、その基本志向は一貫して臨床の現場で戦力になる外科医。後に、地域医療への興味も膨らませ、その能力を遺憾なく発揮して現在にいたっている。麻酔科医といえば一般的に、手術室でのみ能力が生きる超専門特化したスペシャリストのイメージがあるが、それとは大分違う能力を携えているのだ。
「私が麻酔科を選んだ動機は、外科医としての研鑽に生かせると考えたからですが、ベースはあくまでも、自衛隊員の健康と命を守る医師、戦場や大規模災害対処や国際貢献活動に参画できる医師としての能力です。
私は陸上自衛隊に配属されたので、まず陸自衛生学校でのBOC(幹部初級課程)を修了。次いで、AOC(幹部上級課程)に進み自衛隊医官に必要な知識、技術を徹底的に学びました。そして、その後9年間をかけて、駐屯地衛生部隊や自衛隊関連病院に勤務する中で総合医的な臨床力をみっちりと叩き込まれたのです。
ちなみに、BOCでは化学兵器対策なども学びます。同僚と『サリンという兵器もあるらしいが、この世で実際に使われることなんてないだろう』とうそぶいた矢先に、地下鉄サリン事件が発生し腰を抜かしたのを、昨日のことのようにおぼえています」
2007年、JICA口唇口蓋裂ボランティア、ロンボク島の即席オペ室での麻酔風景。
市立小樽病院時代
麻酔科の専門教育は、札幌医科大学で受けたが、この学び舎にも特徴があった。
「後に同大学にも救急科の講座が誕生しますが、私が学んだ当時は、救急分野は麻酔科が牽引者だったのです。教授も救急に造詣が深い先生で、麻酔科医局の方針として勤務先の病院では率先して救急医療に関わることとされていました。この時期に、救急医療についても多くを学びました」
「我慢する必要はない。その代わり努力しなさい」なる金言に後押しされる人生
服部氏の人生訓について。今年7月で93歳になった祖母に、大きな影響を受けたという。
「祖母は没落した地主の娘で、終戦時に命からがら満州から帰還するような苦労もしています。北海道に移り住んでからは、事業欲も旺盛で、様々な仕事から様々な経験を得た。とても魅力的で尊敬できる人でした。そんな祖母は私をとてもかわいがってくれ、私も祖母の影響を大きく受けました。そして、彼女から折に触れてかけられた言葉が、『我慢する必要はない。やりたいことをやれ。その代わり、努力しなさい』でした。
私の行動規範の中心部には、その言葉が生きていると思います」
医局間移籍というレアな事例。誰もが驚く選択と決定に、当事者のいだく感慨は
服部氏は自衛隊所属時代から札幌医科大学とは接触があり(自衛隊医官は、研修のために自衛隊外の教育機関や医療機関に出向くことを許されている)、医官最後の4年間は札幌医科大学博士課程で学んでもいた。そんな縁もあり、退官後は札幌医科大学医局に入局。同医局で麻酔科医としての腕を磨きながら、医局人事で北海道内の関連病院勤務も経験した。
2008年に、服部氏は招聘に応じて、鹿児島県立大島病院に移籍した。
「奄美大島で離島医療に従事してみないかというお誘いに大きな魅力を感じました。海も綺麗ですし(笑)」
服部氏は現在、鹿児島大学医局の医局員として県立大島病院に勤務する。それは単なる勤務地変更ではなく、札幌医科大学麻酔科医局から鹿児島大学麻酔科医局への医局間移籍だったのである。
誘いに心動かされたので、我慢せずに移籍したわけである。しかし、ことは医局の移籍。実現に要した努力が並大抵でなかったことは、想像に難くない。また、移籍後の努力の決意も、ひときわ大きなものだったろう。
2015年、JICA地域研修における講義。
当院ヘリポートにて
「『札幌医科大学の医局から移籍してきました』と自己紹介すると、多くの人が目を丸くして驚きます。『そんなこと、できるの?』と。それに関しては両医局の教授がともに寛大で、柔軟な方であったのが奏功したように思います。
実は、話がまとまりかけたところで、『人員補充の問題を解消するのに、1年の猶予がほしい』と札幌医科大学側から率直な条件提示があり、鹿児島大学側がそれを呑んでくださるという出来事がありました。出す側は出すことに得心しているので、台所事情を忌憚なく明かし、条件交渉をする。受け入れる側は、真剣に考えているからこそ、歩み寄る。率直な意見交換と柔軟な対応があって実現したこの移籍には、感じ入る点が多々ありました。
一言で言うなら、感謝。その2文字に尽きます」
実習生、研究医が集まる人気病院になった
ところで、祖母の金言は、服部氏を通じて次世代の医師にも伝承されている。県立大島病院は、服部氏が救急医療を立て直して以降、全国から実習生と研修医が集まる人気研修病院になりつつある。
「実習生や研修医に、医局選びに代表される進路についての相談を寄せられた際に、私は、祖母のあの言葉に沿った意見表明をします。『君は、行きたいところに行ける。やりたいことができる。大切なのは、選択の右左ではなく、そのための努力、選んだ後の努力だ』と。
鹿児島大学の教授にこのお話を何の気なしにしたら、『君は当大学の医局員なのだから、まずは当医局につなぎとめることを第一にね』と、やんわりお叱りを受けました(笑)。教授のお話ももっともですので、あくまで個人的意見として『我慢するな』、医局員としては医局に魅力を感じてもらえるよう努めているところです」
勤務した病院がより良くなるために、何でもしようという考え。
服部氏の移籍には、札幌医科大学から鹿児島大学への救急医療ノウハウの移植という側面がある。
「救急科講座の立ち上げで見れば、鹿児島大学は札幌医科大学に数年遅れて果たしています。日本全体で、大学医局が救急への注力を開始した時期でしたので、取り組みの早かった大学、遅かった大学の色合いがはっきりしていました。
私が札幌医科大学で学んだ救急に関する知識は、鹿児島大学や県立大島病院では大いに生きたと実感しています」
県立大島病院での服部氏への期待は、麻酔科再建、救急医療再建にとどまらなかった。
「院長に意見を求められましたので、『この県立病院を急性期病院として歩ませるのか、慢性期病院としていくのかを、まずはっきりさせませんか』との意見書を提示するところから始めました。
そこで急性期病院という方針を明示してもらい、次いで、救急の立て直しのため、手術室の再建を手がけました。システムとスタッフを再構築し、年間1,000件だった手術件数を1,800件にまで増やすことに成功。その頃には、救命救急センターの計画の予算が議会を通過し、いよいよ建設計画が本格化しました」
そんな月日を通して、地元への理解と愛着も深め、冒頭に記したように「奄美で病気になったのだから、諦めよう」を乗り越えたいとの使命感を強めていった。
ちなみに、救命・救急センター設立準備室長としては、離島のため入手しづらく割高なコンクリートの確保の可否に心を砕くような業務も率先して引き受けた。
「医師免許を取得して以降、私の中で一貫していた考えがひとつあります。それは、『勤務した病院がより良くなるためには、どんな努力も惜しまない』です。
新卒1年目の当時、まさか将来、コンクリートの心配をすることになるとは想像もできませんでしたが(笑)、その考えがあったせいで、まったく苦にはなりませんでした」
北から持ち込み南で育てた知識と知見を、再び北に持ち帰り展開してみたい。
ドクターヘリには、今でも自ら乗り込むことが多いという。病院の経営の未来を問われれば、国と県の医療政策の現在をすらすらと解説し、私見を示してくれる。現在では県庁や県議会にも多くの顔見知りがあり、折衝ごとがあってもすぐに糸口を見出せるという。離島での研修医の生活を気遣って、「麻酔科の領域である減圧症を学ぶため」と称して全員にスキューバダイビングのライセンスを取得させる施策を強行した折のエピソードを笑いながら披露してくれた。前述のコンクリート調達のくだりには、悲哀を感じる気持ちも湧くが、それ以上に業務遂行能力の高さに感服する。
なんて魅力的なのだろう。あえて、「総合」の意味を拡大し、こんなタイプの「総合医」も存在するのだなと素直に感動した。
「思い返せば自衛隊所属時代、下士官として部隊を統率する役割を与えられたり、イラク戦争への派遣部隊のための医事に関する企画書を策定させられたりした折、『もっと医学と医療を学びたいのに』と不満を感じた自分を愚かだったと思えます。
当時、無駄な周辺業務や意味不明の使命に思えた事柄を数多く経験したことが、すべて血になり肉になっている。
『レールに乗らない』医師人生を豊かに育てる底力を与えてもらったことが実感できます。『勤務した病院がより良くなるために』できることをする。その限界値が、比較的高かったことを誇りに思いますし、その力を与えてくれた自衛隊に感謝するばかりです」
将来展望について、聞いた。
「両親がいますので、将来、北海道に戻れればいいなと思っています。
また、奄美で経験し、培った地域医療に関するあれこれを、北海道で生かしてみたいという好奇心もあります」
自衛隊で学び、北海道で学んだ臨床と救急の力を携えて南の奄美に渡り、そこで培い育てた力を再び北に持ち帰り、展開する。なんとダイナミックで、心躍る企みなのだろう。そんなことを成し遂げる機会を与えられた数少ない医師が目の前にいる。この人物が、これまでもこれからも「レールに乗らない」医師人生を疾走する姿を思い描くだけで楽しくなってしまいます。
2015年、新しい家族誕生。奄美にて3世代ビーグル、1代目は北海道から
2016年、龍郷町服部先生自宅にて。研修医、麻酔科、救急科ファミリーでのホームパーティー
服部 淳一先生
1995年4月~1997年3月
防衛医大附属病院、自衛隊中央病院、三宿病院にて卒後研修
1997年4月 陸上自衛隊真駒内駐屯地勤務
1999年4月 陸上自衛隊札幌病院勤務
2000年4月 札幌医科大学博士課程入学(自衛隊所属のまま入学)
2004年3月 自衛隊退職
2004年3月 札幌医科大学博士課程卒業
2004年4月 札幌医科大学麻酔学講座入局
2004年7月 広域紋別病院勤務
2007年1月 市立小樽病院勤務
2008年4月 鹿児島県立大島病院 麻酔科部長
2013年4月 鹿児島県立大島病院 救命・救急センター設立準備室長
2014年4月 鹿児島県立大島病院 救命救急センター長
(2017年5月取材)