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2017.07.18

鹿児島市立病院総合周産期母子医療センター センター長 新生児内科部長 茨 聡先生

新生児の後遺症なき救命に尽力した36年。
技術革新とリーダーシップで、
さらなる高みをめざす。

新生児の後遺症なき救命に尽力した36年。 技術革新とリーダーシップで、 さらなる高みをめざす。

新生児の後遺症なき救命救急をめざし、1000g未満で生まれた未熟児に対して、昼夜を問わず不眠不休で向き合っている医療者たちがいる。茨聡医師は、1981年に鹿児島大学卒業と同時にその道に進むと、つねに最前線にあって、タフな仕事の陣頭指揮を執ってきた。

ダイナミックに状況が変化する出生後数時間の救命を使命に

第一人者である茨氏は新生児と向き合う難しさの中に、醍醐味を感じている。
「新生児には独特の疾患があります。母胎内では胎盤で呼吸していたのが、肺で呼吸するようになるので、出生後数時間は、人生で死亡率の高い時でダイナミックにいろいろなことが起こってきます。赤ちゃんは生まれてくるだけで奇跡なんです」

胎児期からの子どもの安全を見守る周産期医療という概念が、日本で初めて産声を上げたのが、実は鹿児島市立病院である。かつて全国でも最下位近くを低迷していた鹿児島県の新生児死亡率は、同院の熱心な取り組みで、1990年代半ばには1000人中1.1人と大幅に改善され、なお低水準を保ち続けている。「赤ちゃんの後遺症なき生存」を基本方針として、チーム一丸となって新生児の安全を守り続けてきたのだ。
「新生児を絶対に助けるとなったら、それを“憲法”として、その方向に向かっていきます。患者は断らない。この子たちを助けるのは私たちしかいないという使命感、誇りがあります」

大学医局に属さず、その道一筋に歩んできた異端の産婦人科医の人生を遡ってみよう。
1956年、茨氏は長崎市で生を受けた。地元の進学校・長崎東高等学校に進み、早稲田大学の理工学部応用物理学科に合格して入学を決めた。75年のことだ。
ところが、一方で“賭け”をしていた。当時、国立大学には、3月初旬に入試行う一期校と、下旬の二期校があり、2校を受験できた。二期校の鹿児島大学医学部に出願。父の親しい知人に医師がいたことに多少影響を受けていた。
大都会・東京で大学生活をスタートさせた後、4月末になって鹿児島大の合格通知が届いたのだ。
「田舎者だから、山手線の満員電車にはうんざりしていました。これを逃れられるならば、別の道の進んでもいいとさえ思えました」
一転、九州に舞い戻った。“消去法”で入った医学部であり、そうまじめとは言えない学生だったが、それなりの成績を収めていた。

日本で初めての五つ子の分娩成功で新生児センターを拡充

76年1月になって、地元の鹿児島市立病院で5つ子が誕生し、全員揃って生育しているというビッグニュースが飛び込んできた。名実共に地域でナンバーワンの病院といえば大学病院のはずだが、大仕事を成し遂げたのは、市民病院だ。取り上げた池ノ上克氏(後に宮崎大学学長)は、留学先の米国南カリフォルニア大学から帰国した直後の精鋭だった。
市立病院は、周産期医療に重きを置いていた。外西寿彦氏(故人)が、鹿児島大学産婦人科の助教授から70年に同院の産婦人科部長として赴任した当時、県の周産期死亡率は、日本でワースト3に入るほどだった。周産期を専門とする医師は少なく、未熟児の分娩への取り組みは遅れていた。

そこで、「太陽の子」事業と名付けた母子保健事業が展開され、外西氏は、周産期死亡を減らそうと、保健所を回るなどしていた。一方、長崎県には、国立長崎中央病院(現・国立病院機構長崎医療センター)に田崎啓介氏という新生児医療の大家がいて、九州で初となる未熟児医療センターを立ち上げていた。外西の部下たちが、そこに行って技術を磨いていたことが、五つ子の分娩というチャレンジにつながった。
日本ではそれまで、五つ子が生きて誕生したことはなかったため、日々のミルク量や体重がテレビニュースでも報道されるなど、大きく世間の耳目を大きく集めた。これが契機になって、周産期医療をさらに強化するため、県や市、国の助成も受けて78年、最新鋭の設備を備えた、新生児部門(新生児センター)40床(うち9床がNICU=新生児治療室=)を新設し、産科部門(分娩センター)、および母子保健指導室から成る周産期母子医療センターが開設された。

1988年 NICUでの外西所長を中心とした回診風景

翌80年に茨氏が見学に訪れると、新生児センター内は機械だらけ、「まるで工場だ」。工学部をめざしていた頃の思いが、むくむくと頭をもたげた。案内してくれた池ノ上氏は、実に長崎東高校と鹿児島大学の先輩にあたるという。話が盛り上がり、寿司をごちそうしてもらうなどするうちに、スカウトを断り切れなくなった。故郷の長崎に戻って外科医をめざすはずが、抜き差しならならなくなって、鹿児島市立病院の産婦人科に入職を決めた。
茨氏の関心は、もっぱら新生児医療にあった。

「NICUは大好きな機械に囲まれていたし、何といっても、新生児医療がとても論理的であることに魅せられました」
実は、新生児の治療を、産婦人科が手掛ける医療機関は減りつつあった。日本では戦前、新生児医療を産婦人科が担っていたが、戦後はアメリカ流に小児科が行うことが主流となった。しかし、鹿児島のような地方では、まだ産婦人科が行っていた。これが幸いして、異端の医師人生が幕を開けた。

技術革新が救命率を上げる中で赤ちゃんのかわいさの虜に

当初は、新生児の顔の見分けも付かず、新生児のかわいさが分かってくるのは、仕事を始めてしばらくしてからだ。
外科では、「背中を見ながら手術を覚える」といった方法がまかりとおっていた。しかし、産婦人科では、先輩の池ノ上氏が、採血管の持ち方や血液ガスのデータの読み方などを、手ほどきしてくれた。指導のレベルも高く、茨氏は「これは勉強になるな」と直感した。
今では、400g台で生まれた子の9割、300g台でも7割が助かる。22週で生まれた子でも、大半は、障害を残すことなく、正常に育っている。

しかし、茨氏が医師になった当時、出生時に800g台の未熟児は半分が命を落としていたのみならず、不妊治療の普及が、多胎児を増加させていた。人工授精、いわゆる試験管ベビーの技術はまだなく、不妊治療の目的で排卵誘発剤(ゴナドトロピン製剤)が多用されていた。この薬は今も用いられているが、使い方が工夫されたことで、せいぜい三つ子止まりだ。また、超音波で確認しながら卵胞を体内に戻す人工授精は、受精卵の数を制限できるため、三つ子以上の多胎児は稀になった。

茨氏は、カリフォルニア大学アーバイン校(UCI)への留学を経て、1991年に池ノ上氏が宮崎医科大学(現・宮崎大学)産婦人科教授として転出した後は、新生児医療センターを率いることになった。

当時、鹿児島県内でNICUを備え、胎児から新生児までを一貫して管理できる医療機関は同院だけ。県内各地からリスクの高い妊婦や未熟児が相次いで搬送されていたのには、2つ大きな理由があった。
まず、NICUで、他院にはない膜型人工肺(ECMO)を用いて呼吸を補助するという、先駆的な新生児医療を行っていたことで、予後を大きく改善させる。これは茨氏が留学した米国で開発された治療法である。
「早産の原因は半分以上が感染症で、未熟児は子宮内で感染して肺がボロボロになります。血液浄化療法を行うことで大きく改善され、人工呼吸を必要とする子が大幅に減りました。敗血症で亡くなる子も減り、脳の障害も減りました」
もう1つが、ヘリコプターで、鹿児島県は高速道路網の整備の遅れから、車では往復4時間かかる地域があったが、ヘリであれば1時間以内で往復できる。新生児が寝たきりになるのは、ほとんどの場合が出生前に胎盤が子宮の壁から剥がれて酸素が行き渡らなくなってしまうことだが、常位胎盤早期剥離などで生じる低酸素性虚血性脳症の治療を早く行うことにより、大幅に削減できるようになった。

1988年 NICUでの超未熟児ルーチンケア

茨氏が若手だった80年代は、新しい技術が続々と導入された。肺を膨らませるサーファクタント製剤や、1分間に900回という高頻度振動換気(HFO)の人工呼吸器も登場した
「技術の変化が激しかったので、とても楽しく、いつもわくわくしていました。今の機器は完成度が高いので、あまり面白くないかもしれませんね。無我夢中でやっているうちに、ああ新生児はかわいいなということも気付かされます。この両輪によって、新生児医療にやみつきになってしまいました」

人手不足で危機的な状況が12万人の署名を集め増床・増員に

すべてが順調だったわけではない。患者が集中し、新生児救命率の向上によってNICU滞在期間が長期化したたこともあり、人手不足から一時は危機的な状況にも見舞われた。今から15年程前のことだ。

当時は、100人以上の未熟児を、60床(うちNICU12床)で管理することが常態化していた。全国で2~3番目の規模の新生児センターであるにもかかわらず、常勤医は茨氏含め3~4人と、全国から学びに来ている3~4人の医師がいるのみで、看護師も50人ほどだった。これでは立ちゆかないと考えた茨氏は、まず、病院に増床やスタッフ増員を求める要望書を書いたものの、あっさり却下された。
「もう限界だ」と辞める決意を固めたが、県や市の医師会や助産婦会などから慰留されただけでなく、増床のための署名活動が行われた。12万人もの署名が県と市を動かし、全会一致でNICUの20床増床が決まった。
2000年にNICUがリニューアルしてオープン。NICUは3対1看護体制を取っているため、必然的に看護師も倍増され、常勤医師も6人手当てしてもらえた。機械も刷新され、スタッフに時間的なゆとりが出てきた。現在では、常勤医は16人という手厚い体制を敷いている。
同院には症例が集積され、設備も最新鋭なら、学会活動も活発だということで、全国の大学から医師を呼び込むことになった。同院に修業に来た医師たちは、累計では350人を超える。鹿児島大学や宮崎大学以外の出身者も150人以上はおり、北海道や東京の大学の出身者もいる。茨氏のように医局に所属しない医師たちもいる。
全国的に見ても、国立成育医療研究センター、埼玉医科大学などと並び、全国でも5本の指に入る陣容を備えている。

臨床だけでなく、研究に取り組む環境も充実している。鹿児島大学との連携大学院も置かれ、研修中に博士号も取得できる。同大には獣医学部もあるので、動物実験も可能で、大学とあまり差がない。UCIと協約を結んでおり、後期研修期間の4カ月は、給与を受けながら留学して研修を受けることができる。
「うちは“勝ち組”です。当直回数は多いが、オンオフがはっきりしていて、当直でなければ、5時過ぎには帰れます。待遇もそこそこ良く、勉強もできる。鹿児島は食べ物もおいしい。居心地が良いのか、みんななかなか帰りません」

赤ちゃんを収容した保育器を、ストレッチャーに乗せてドクターヘリに搭載

同院は、11年12月から県のドクターヘリの基地病院、14年10月からは鹿児島市が運用開始したドクターカーの基地病院ともなり、どちらも24時間稼働している。日本全体で周産期のドクターヘリは年間約120回しか飛ばないが、同院の新生児内科だけで50回は飛んでいる。
16年4月の熊本大地震では、保育器に載せて乳児を搬送しては、また送り出す。妊婦も一人搬送した。屋上には、勤務ではない看護師たちも出勤してきて、保育器を拭いたり、搬送の手続きに奔走した。2日間で10人以上もの患者を受け入れられたのは、当地には愛情に溢れた西郷隆盛の精神が根付いているからだ。
「東京の病院だったら、絶対無理だったと思いますよ。『隣に病院があるんだから』『入院に備えて空きベッド取っておきましょうよ』とね。うちは最後の砦であり、この40年間、患者を断ったことは一度もありません

2001年 新生児専用ドクターカー「こうのとり号」の出陣式

企業との共同研究で血液浄化療法や再生医療に力を注ぐ

現在、茨氏が最も熱心に取り組んでいるのは、血液浄化療法(PMX)である。人工透析のように、血液を体外で循環させてカラムに通し、エンドトキシン(内毒素)を吸着させた後に体内に戻す治療法である。
成人の敗血症治療用には、東レが世界で初めて血液浄化用浄化器を開発し製品化していたが、小児用、さらに新生児用にごく低用量(7mL)のカラムを新たに開発する必要があった。茨氏は、当時の東レの専務に、「新生児の予後が良くなり、生涯寝たきりになるような障害も減らせます」と直談判した。
数量からみて、新生児用は利益が出せない。しかし、茨氏の情熱にほだされ、トップダウンで東レが動いた。足かけでは10年ほどを要したが、治験なしで医薬品医療機器総合機構(PMDA)に承認された。国内では30施設以上が導入するなど広がりを見せ、世界に唯一の技術のため、国際協力機構(JICA)を通じてタイやロシアにも技術供与される予定である。
技術と志が両輪となって、茨氏の率いる新生児医療センターは、常に高みをめざしている。

胎児の死亡率をさらに下げるための技術の研究にも余念がない。脳を冷やして、脳が破壊されるのを食い止める脳低温療法にも積極的に取り組んでいる。
胎盤の早期剥離が起こるなどすれば、酸素が届かずに脳が障害を受けるため、脳障害を0にすることはできない。胎盤にできた血栓により、脳梗塞が生じることがある。未熟児では、脳に血流が行き渡らず脳性麻痺になることも多い。そこで、東レと共同で臍帯血から採取した幹細胞を脳組織に注入する再生医療にも挑む予定である。
「これが最後の大仕事と思って、再生医療に取り組んでいます。新生児は臍帯血あるので、万能細胞に近い細胞を用いることができる可能性があります。脳梗塞を起こした子どもたちに対する切り札になるでしょう」
茨氏が最初に救命した未熟児は、成人して30半ばになっている。成長の過程で小児科を受診したり、「卒業しました」「就職しました」と、茨氏のもとを訪れる。医者冥利に尽きる瞬間だ。

ほかに類を見ない新生児センターの最新設備

胎児の死亡率をさらに下げるための技術の研究にも余念がない。脳を冷やして、脳が破壊されるのを食い止める脳低温療法にも積極的に取り組んでいる。
胎盤の早期剥離が起こるなどすれば、酸素が届かずに脳が障害を受けるため、脳障害を0にすることはできない。胎盤にできた血栓により、脳梗塞が生じることがある。未熟児では、脳に血流が行き渡らず脳性麻痺になることも多い。そこで、東レと共同で臍帯血から採取した幹細胞を脳組織に注入する再生医療にも挑む予定である。
「これが最後の大仕事と思って、再生医療に取り組んでいます。新生児は臍帯血あるので、万能細胞に近い細胞を用いることができる可能性があります。脳梗塞を起こした子どもたちに対する切り札になるでしょう」
茨氏が最初に救命した未熟児は、成人して30半ばになっている。成長の過程で小児科を受診したり、「卒業しました」「就職しました」と、茨氏のもとを訪れる。医者冥利に尽きる瞬間だ。

1995年 新生児センターのスタッフと

2008年 鹿児島市立病院新生児センタースタッフと

オフの時間には、好きな歴史書を読んだり、歴史番組を好んで見る。当地には、勇気と実行力で明治維新の時代を切り開いた、愛に溢れたリーダーがいた。人望があり、周りにたくさんの若者が集まったと言われる西郷隆盛の姿が重なった。茨氏自身も、周産期医療における歴史に名を刻んでいる。

鹿児島市立病院総合周産期母子医療センター センター長 新生児内科部長
茨 聡先生

1981年 鹿児島大学医学部卒業
1981年 鹿児島市立病院産婦人科入局
1986年 米国カリフオルニア大学アーバイン校留学
1987年 鹿児島市立病院周産期医療センター 医員
1990年 鹿児島市立病院周産期医療センター 医長
1991年 米国カリフオルニア大学アーバイン校留学(客員講師)
1999年 鹿児島市立病院周産期医療センター 科長
2000年 鹿児島大学医学部 臨床助教授
2002年 鹿児島大学医学部 臨床教授
2006年 鹿児島市立病院周産期医療センター 新生児科 部長
2007年 鹿児島市立病院総合周産期母子医療センター 新生児科部長
2015年 鹿児島市立病院総合周産期母子医療センター センター長 新生児内科部長
2016年 鹿児島大学医学部連携大学院総合成育医療講座 客員教授

(2017年3月取材)