臨床医のマインドと最先端の疫学研究をナチュラルに両立している現代の医師の姿。
研究という言葉が基礎研究を意味していた頃、研究者は白衣と薬品の匂いにまみれて患者に背を向けている姿がパブリックイメージだった。臨床医であり、糖尿病の疫学研究者である後藤温氏は、そんな旧態依然のイメージとはかけ離れた佇まいで仕事の解説をしてくれる。もちろん医師を選んだ若者は、いつの時代もすべからく人の役に立ちたいとの志が共通している点に疑いはないが、アウトプットの違いに時代性を帯びるもの。後藤氏を通じて、新しい時代の新しいスタイルの医師像を、垣間見ることができる。
疫学研究に魅せられ、突き進む若手研究者。 彼は、臨床医でもある。
一般市民の認識が及ばない医学と医療の真実のひとつに、臨床医による臨床研究がある。ほとんどの患者にとって、診察室で相対する医師は「診る人」。しかも「診る」は、問診、触診や診断、処置、処方せん確定といった、目に見える作業がすべてという認識。
日々の臨床の中にみつけた疑問を研究デザインに結びつけ、解析デザインを構築し、研究成果で多くの患者を救うリサーチマインド。つまり、臨床研究。実はこれも、りっぱな「診る」であると言っていいが、多くの患者が、臨床医の、このもうひとつの横顔を知らない。少々医療の知識をかじった者ほどむしろ、「臨床と研究は対極の医師の道」と信じこんでもいる。研究とはすなわち基礎研究だと、旧態依然の図式で考えがちだ。
ただ、致し方ない側面もある。実は、当の医師たちが、つい最近まで、臨床と研究を二者択一の俎上に載せていたのだから。日本の医学界が基礎研究にこれまでどおりの存在意義を残しつつ、臨床研究にもそれに劣らぬ意義と重要性を認めるようになって、日はまだ浅い。臨床医を続けながらできる研究、いやむしろ臨床医にしかできない研究があるという新しい認識はいまだ定着の過程と言っていいだろう。
2016年に卒後12年目を迎えた後藤温氏は、そんな新しい時代を象徴する臨床医のひとり。同年4月に国立国際医療研究センター糖尿病研究センター糖尿病研究部から国立がん研究センター社会と健康研究センター疫学研究部代謝疫学研究室長へと転籍し、一貫して取り組んできた臨床研究、疫学研究への取り組みを加速させている。
「国立がん研究センターの社会と健康研究センターは、がん予防・健診研究センターとして活動していた組織を改組し2016年1月に誕生しました。それまでのがんの予防・早期発見(検診)に加え、がん患者・サバイバーへの支援、支持療法やがん対策などを組入れ、社会的、経済的、倫理的な諸問題などに関する研究を実施することにより、国民生活の質の向上、格差の解消と健康の維持・増進に資することを使命としています。
私は、同センター予防研究グループに属する疫学研究部と予防研究部のうち、疫学研究部長の岩崎基先生の下で代謝疫学研究室長を拝命しました」
国立がん研究センターに糖尿病研究者が採用された意味
がん予防・健診研究センターが社会と健康研究センターに衣替えした意図は、名称の変更からもうかがい知れる。
「代謝疫学研究室が設置され、専門分野が糖尿病である私が採用されたことでも、改組の意図はよくわかると思います。近視眼的ながんの予防・早期発見からさらに視野を広げ、これまで以上の貢献を目指します。
これは、日本のがん医療と研究を強力にリードし続けた歴史を背景に、2014年には、『大学又は民間企業が取り組みがたい課題に取り組む』法人として国立研究開発法人にも指定された国立がん研究センターが、課せられた使命をより適確に果たすために打ち出した新方針のひとつです」
『がん研に行くということは、糖尿病の研究を止めるのか?』と早のみこみした心配の声をかけられたこともありますが(笑)、もちろん違います。ライフワークである糖尿病の疫学研究を、がん予防に役立て、国民の健康増進に寄与したいと思い、ここに異動しました。1990年から始まっている国立がん研究センターによる大規模コホート研究であるJPHC Studyにおいて糖尿病の疫学研究に携わって、津金昌一郎先生や岩崎基先生とご一緒させていただいたことがきっかけとなりました」
糖尿病とがんの間に関係があろうことは、すでに一般市民でさえ気づいている。
「糖尿病の予防はもちろん大事ですが、糖尿病を発症したらどんな合併症に気をつけるかという点も大切な疾患です。欧米では、それは心疾患。糖尿病に起因する心臓病の患者さんが多いのです。一方、日本ではそれががんになります。糖尿病の合併症での死亡者数をみると、圧倒的にがんが多い。国民的な関心事になるのは当然と言えますし、私も糖尿病の研究の過程でがんへの関心は年とともに強くなっていました。
医学界もその点は注視しており、2013年7月には、日本糖尿病学会と日本癌学会による合同委員会が糖尿病とがん罹患リスクや予後などに関する検討を行い委員会報告を発表しています。報告のとりまとめには私も参加し、現在取り組んでいる研究につながっています」
すべてのがんで1.2倍、 肝臓がん、膵臓がんでは2倍のがん発症リスク
ところで、肝心の糖尿病とがんの因果関係だが、実際にはあるのだろうか。
「研究結果は、相関関係があることを示しています。すべてのがんでみると、糖尿病罹患者はそうでない人の約1.2倍。肝臓がん、膵臓がんでは約2倍にまで発症リスクが高まることがわかっています。しかし、因果関係があるかどうかはまだわかっていません」
そこで、後藤氏はどんな研究に取り組むのか。
「疫学研究は2000年代に入って複数の研究結果を統合して解析するメタ解析の手法が確立し、飛躍的に進歩しました。2013年の合同委員会報告もその成果のひとつですが、糖尿病とがんとの関係の整理がついたに過ぎません。まずは、その詳細な分析、解析をさらに前進させるのが私の仕事と認識しています。
JPHC Studyを基盤に活用し、がんの原因を明らかにし、がん予防法の開発につながるエビデンスの構築を目指します」
初期臨床研修の場で見出した興味は、 「予防医学」そして「疫学研究」
一昔前、つまり医師にとって臨床の道と基礎研究が二者択一の選択肢だった時代。研究テーマは教授から「~をやってみなさい」と下知されるものだった。後藤氏の場合、自分で発見し、選んでいる。しかも、初期臨床研修に身を投じている時期にだ。その1点だけをしても、明らかに新時代を感じさせる。
「私は初期臨床研修必修化の1期生ですが、研修のローテーションで公衆衛生の部門に行った際にこの分野に強い関心をいだきました。また、他科で急性期の治療に携わりながら、『この疾患は未然に防げなかったのか』とか、『この予後にどんな合併症があるのだろう。それは、どう防げるのだろう』という考えを何度も持ちました」
多くの研修医にとって、臨床研修での関心事は手技、治療法のはず。そんな中、予防に興味を持ち、深めた後藤氏のセンスは特筆すべきものだろう。
「少数派であったことだけは確かでしょうね」
診療科選択も、そういった論理展開の結果だ。
「予防医学に力を入れている診療科はどこだろうと検討した結果、『それは糖尿病、つまり内分泌・糖尿病内科』という結論に至りました」
そういった独特の思考を重ね、後藤氏は糖尿病専門医の道を歩むことになったのだ。そして、母校である横浜市立大学医学部の内分泌・糖尿病内科に入局。寺内康夫教授のもとで臨床を学び、臨床研究へのバックアップも得た。
「私は師に恵まれたと実感します。寺内先生の見識の高さと医局員の希望への寛容さがなければ、こうはならなかったと思う。特に、大学の外で学びたいという私の願いには全面的に協力してくださいました」
国立国際医療センター病院で糖尿病の後期臨床研修を行った際は、糖尿病臨床および疫学研究のエキスパートである野田光彦部長(現 埼玉医科大学教授)に指導を仰いだ。師の応援を背に、UCLAで疫学博士号を取得し、横浜市立大学大学院の博士号も取得。国立国際医療研究センター研究所勤務、東京女子医大助教とステップを踏みながら、糖尿病の疫学研究を前進させていった。
我が子のような研究成果が、世の中の役に立つ醍醐味
ここでひとつ、強調しておかねばならないことがある。後藤氏は研究者としてのキャリアを高め現在があるが、基盤はあくまで臨床医である点だ。
「疫学研究はとにかく面白い。ただ、一方で自分が臨床医である側面もないがしろにはしません。純粋に臨床も面白いですし、私の研究は臨床と切り離しては命脈が尽きると感じています。患者さんの何気ない一言が研究を前進させるきっかけになったことは数知れないのです。
また、糖尿病という疾患は、今後ますます予防が重視されるわけで、外来診察室で研究成果が生きる場面も増えてくると考えています。
実は、国立がん研究センターでは診療を行っていないのですが、いつか、臨床の現場に立ちたいと思っています」
臨床医のマインドを堅持しつつ、最先端の研究を続ける。今はまだ少数派だが、後藤氏の後に続く者も増えるのだろう。その姿に触れると、古くから言われる「医師も科学者である」との一言に深い納得を感じる。
「研究は、面白いです。また、その研究成果を世に出す過程にある困難の数々が、むしろやる気に火を付けてくれる。困難を乗り越え、我が子のような研究成果を世に送り出し、社会の役に立つというプロセスを経験すると、さらにこの世界にのめり込むことになります(笑)。
私の仕事には、そんな『二度美味しい』ところがあります」
最先端の遺伝子技術でわかってきたことは、 遺伝子の影響は小さそうだということ
話が、最新の疫学研究手法である分子疫学の話題に移った。
「分子生物学の知識と手法を応用した分子疫学は、疫学研究に大きなエポックを作りつつあります。それまでは、『とはいえ、疫学解析ですから仮説レベルですよねえ』と反応されてしまうことも多かったのですが、分子疫学は分子レベル、遺伝子レベルでのエビデンスを示せるわけですから」
その表情が知的好奇心が刺激されているのが、よくわかる。しかし、新しい刺激に浮き足立っていないところがまた、地に足のついた研究者の所以だとも思わされた。
「遺伝子レベルの研究が進んで、わかってきたことがあります。それは、糖尿病やがんの罹患リスクと遺伝子の因果関係は思ったより低いということ。遺伝よりもむしろ、後天的な環境や生活習慣の因子が重要だとわかりつつあります」
科学者との会話は、奥が深く、楽しい。しかも目の前の科学者は、臨床の現場で人とコミュニケーションするスキルも持ち合わせているせいで、伝える術にも満ちている。
ニュージェネレーションは時間とともにメインストリームになる。「こんな人」が中心にいる医療がスタンダードになった日には、日本という国の豊かさも一回り大きくなっているはずだと思えたのだった。
社会と健康研究センター
疫学研究部代謝疫学研究室長
後藤 温先生
2004年3月 横浜市立大学医学部医学科卒業
2004年4月 藤沢市民病院、横浜市立大学附属病院初期臨床研修医
2006年4月 国立国際医療センター病院 糖尿病・代謝・内分泌レジデント
2012年6月 米国University of California, Los Angeles (UCLA)疫学博士課程修了
2013年3月 横浜市立大学大学院医学研究科博士課程修了
2010年7月 国立国際医療センター病院 糖尿病・代謝・内分泌フェロー
2012年4月 国立国際医療研究センター研究所 糖尿病研究センター糖尿病研究部 上級研究員
2014年11月 東京女子医科大学医学部 衛生学公衆衛生学第二講座 助教
2016年4月 国立がん研究センター社会と健康研究センター 疫学研究部 代謝疫学研究室長
横浜市立大学医学部社会予防医学教室 非常勤講師
(2016年9月取材)