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2026.03.17

「病」と「差別」について〜ハンセン病療養所を訪ねて、いま思うこと〜【小徳羅漢(4)】

文・写真:小徳羅漢

「もういいかい 骨になっても まあだだよ」。国立ハンセン病療養所に入所していた患者が、たとえ死んで骨になっても、差別のために故郷に戻ることができない無念さを詠んだ川柳です。

国立ハンセン病療養所は全国に13カ所あります。先日、奄美大島(鹿児島県)にあるハンセン病の国立療養所「奄美和光園」を見学してきました。今回は、奄美和光園でハンセン病の歴史を学び、「病と差別」について考えたことをお伝えしたいと思います。

ハンセン病の歴史

ハンセン病は「らい菌」という細菌による感染症です。幼少期にらい菌に感染することで、数年から数十年という長い潜伏期間を経て発症し、皮膚や神経、目に障害が現れ、手や顔に特徴的な変形が残ることがあります。

1940年代に米国で特効薬「プロミン」の効果が確認され、日本国内でも使用が始まり、ハンセン病は治療可能な病気になりました。その後、より効果的な多剤併用療法(MDT)が用いられるようになってからは、早期の発見と治療で後遺症なく治ります。WHO(世界保健機関)によると、現在は発展途上国を中心に世界全体で毎年約20万人の新規患者が確認されている状況です。ただし、日本で生まれ育った人が発症するケースはほとんどありません。

しかし、かつて日本でもハンセン病がまん延していた時代があります。患者に現れる見た目の変化からハンセン病は、前世で悪いことをしたから感染する「業病(ごうびょう)」と呼ばれ、感染者は社会から隔離されハンセン病療養所に入所させられました。そして、治療できるようになってからも、患者は後遺症と差別に苦しめられてきた歴史があります。

学芸員や所長をはじめ職員の皆さんが、ハンセン病患者の隔離が厳しかった時代のことを教えてくれました=2026年1月

​時代の波に翻弄された奄美のハンセン病患者

奄美群島にも多くのハンセン病感染者がいたものの、当時療養所は本土にしかなく、約300kmの航路を渡らなければなりませんでした。患者は船に乗る際、非感染者と区別するために(根拠がないにもかかわらず)感染予防と称して石灰の粉をかけられた、という証言が残っています。

そして、奄美群島の感染者を隔離するため1943年に作られたのが、奄美和光園です。ただ、治療薬の国内使用が始まってからも、第二次世界大戦の勃発に端を発し、米国による統治、日本復帰に至るまで時代の波に翻弄(ほんろう)され、薬は奄美和光園には長らく届きませんでした。

施設内には売店が一つだけありましたが、昨年店じまいしました。当時は、入所する時に現金を全て没収され、園でしか利用できない通貨を渡されたそうです=2026年1月

国が見過ごした患者たちの現実

ハンセン病は治せる、感染予防もできる。それが分かっていながら、1953年に定められた「らい予防法(新法)」による感染者の強制隔離政策は、この法律が撤廃される96年まで放置されたままでした。

感染したことで隔離され、子どもと離れ離れになった人もいました。入所者の逃走を防ぐために施設の周りに張り巡らされた有刺鉄線を越えて親に会いに来る子どももいましたが、面会することはできなかったといわれています。また、「優生保護法」の下で、堕胎や不妊手術を強制的にさせられた入所者もいたといいます。

この話を聞いて、コロナ下の出来事を思い出しました。担当した患者の中には、新型コロナを発症しただけで、特に緊急を要する状態ではないのに帝王切開を迫られた妊婦さんや、面会制限で親の死に目も会えず、会えたのは骨になってからだったという人がいました。当時は混乱の中にあり、そういった判断がなされていたのだと思いますが、本当にそこまでする必要があったのかという疑問が残ります。

ハンセン病に対する差別はいま…

奄美和光園は設立から80年がたった今、もちろん隔離施設ではありません。後遺症によって目や手足が不自由になった療養者が安心して暮らせるように、居住と医療が一体となった生活の場になっています。一時期は300人近くいた入所者も高齢化が進み、現在は6人になりました。

80年前と今では随分状況は変わりました。では、差別はなくなったといえるのでしょうか。

ハンセン病患者の中には、現在も病気のことをひた隠しにしている人もいると聞きました。医療機関を受診したときに、既往歴や内服薬の記録でハンセン病患者と知られるため、風邪くらいでは受診しないそうです。

患者さんの心に刻まれた「病」に対する被差別の意識がなくならない限り、ハンセン病への差別が、本当の意味で世の中からなくなったといえないのではないかと思いました。

手足が変形してしまったハンセン病患者が着られるように、衣服は特別に裁縫する必要がありました。この工場で職人がボタンを縫ってくれていたといいます=2026年1月

病に対する先入観を持たずにその人自身を見るということ

病に対する差別を最も身近に感じたのは、やはりコロナ下です。

新型コロナが初めて日本で確認された時、学校を退学せざるを得なくなった生徒や、住んでいる町を泣く泣く出て行った家族がいました。一番苦しんでいるのは、病にかかった当事者であるにもかかわらず、なぜそんなことになってしまうのでしょうか。

奄美和光園を見学してから2週間が過ぎました。

僕たち医療者もまた、カルテに書かれた病名や生活の状況から、無意識に患者さんを色眼鏡で見てしまうことはないだろうか。「アルコール中毒」「生活保護」などの記載がある患者さんに対して偏見のまなざしを向けていないだろうか――。

こんな思いがぐるぐると回り続け、まだ整理がつきません。でもきっと、こうして葛藤すること自体が大切なのだと思います。

知ること。理解すること。そして、声をかけること。

医師として、病に対する差別のない社会に少しでも近づけるために、まずは自分自身の内側と向き合うことから始めたいと思います。
小徳羅漢プロフィール画像

小徳羅漢(ことく・らかん)

写真、右。奄美大島の龍郷町にある「みんなの診療所」にて総合診療医として修行中。左は「みんなの診療所」所長の原純医師。

1991年、茨城県生まれ。小学校高学年の時から神奈川県で暮らす。2016年、東京医科歯科大学卒業。鹿児島市医師会病院で初期臨床研修後、18年に長崎県上五島病院で、19年には離島へき地医療の最先端といわれるオーストラリア・クイーンズランド州で研修。20年から県立大島病院に勤務。街中で医師らに無料相談ができる「暮らしの保健室」を開催している。趣味は温泉巡りと映画鑑賞、そして島巡り。18年に結婚し、20年に夫婦で鹿児島県奄美市に移住。2人の子どもを育てている。

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