2023.04.20
ある日突然、診療所にイノシシの肉が届いた——。千葉県南房総市にある七浦診療所の院長・田中かつら医師は、東京から移住して17年をこの地で過ごしています。山の幸や海の幸に舌鼓を打ったり、住民との会話に花を咲かせたり。そんな日々の出来事について、紹介します。

※4コマ漫画は事実を「少し」盛っています
作画:松鳥むう 原案:林よしはる(ニューカリカ)
ある日、診療所の受付に数キロもあるイノシシの骨付き肉が届いた。半透明のビニール袋に入っており、形がくっきりと透けて見える。捕れたばかりなのかまだほんのりと温かい。「せんせぇ、これ患者さんからぁ。左の前脚ですってぇ」と手渡してくれた受付の女性職員は今にも泣き出しそうだった。
文/田中かつら
房総半島の南端で開業してはや15年。千葉県南房総市の七浦地区にある「七浦診療所」が私の職場だ。
ここ数年、毎日のように「イノシシに畑をやられた」と患者さんが話すので、「我が家も同じよ」と返す。山から下りてきたイノシシが耕作放棄地に住み着き、深夜のうちに、畑の芋などを食べてしまうのだ。夜は怖くて歩けない。農作物の収穫に直結するので、畑を金網で囲って防衛しなければならない。その上で、地元の猟師さんが罠を仕掛けて捕獲している。 我が家は、家に隣接する畑ごと囲いの中に入っているので、まるで自分がおりに入っているようだ。
ある時、患者さんに「私はイノシシ肉が好き」と話した。その翌日受付に届いたのが、冒頭の骨付き肉だ。そんな感じで肉を頂くばかりだったのだが、いつからか夫が、捕獲したイノシシの解体作業を手伝うようになった。「ちゃんと働いて」から頂くというのが大事である。私はというと、銃や罠を扱うための猟師免許に必要な診断書の作成という形で貢献している。ありがたいことに、我が家の冷凍庫はイノシシ肉でいっぱいだ。
イノシシの肉をさばくのは、夫が担当する。自分の畑で採れた野菜と一緒に、自家製のみそで煮込めば「ぼたん鍋」の完成だ。少しだけ甘めの味付けが、焼酎(芋、黒糖)のロックによく合う。イノシシ肉はブタよりも脂があっさり、赤身でヘルシー。私はブタより断然イノシシ派。トマトベースで作るシチューに入れても美味だ。骨付き肉は塩漬けしてから干すと、1年かけてハムに変身する。こちらは赤ワインとの相性が抜群である。
七浦のことを話すなら、海の幸についても触れたい。七浦地区を含む外房地域では、1年のうち10カ月は伊勢エビ(房州エビ)の漁が行われている。2カ月の休漁期間が明ける8月の初め、港には地区の住民が総出で手伝いに集まり、この日の港は祭りのようなにぎわいを見せる。朝5時頃、日が昇る直前から暑くなるまで、2時間くらいかけて作業を行う。網にかかったエビやサザエ、魚や海藻をみんなでわいわいやりながら、外して取っていく。取れたサザエや魚、時には出荷しない伊勢エビを分けてもらえるのが、とてもうれしい。
収穫は魚だけではない。網の掃除をしながら皆さんと話していると、いろいろな町の情報を耳にする。「あそこの病院はよ、検査ばっかりするから嫌だよ(検査は慎重に吟味しよう)」「〇〇先生にはいつも怒られる(診察時は怒らないようにしよう)」「あの院長は、奥さんが3人もいるらしい(そんなはずはないけど……)」「自分は◯◯大臣と友達なんだ(一緒に写真を撮っただけ?)」。などなど、「おおばなし(地元言葉で『雑談』)」をする。この土地の常識や、皆さんが日頃感じ、考えていることを知ることができる良い機会だ。おかげで、ネイティブな房州弁もヒアリングできるようになった。
もちろん、魚の調理法も伝授してもらう。夕飯のメニューも決まり、まずは診療へ。長い一日を終えて家に帰れば、取れたてのサザエと伊勢エビの刺身が待っている。スーパーで買ったものでは味わえない、しっかりとした磯の香りがして絶品だ。肝やミソまでうまい! 日本酒や白ワインと一緒に楽しむ。
移り住んだ私たちを温かく受け入れてくれた、ここで暮らす皆さんが、いつまでも元気でいてほしいと心底願っている。この地で、医師である私が恩返しできることは何かと、いつも考えながら診療している。
七浦診療所のある南房総市外房地区は、漁業・農業に携わる人が多いのが特徴です。全国的に進んでいる高齢化の波が、ここにはいち早く押し寄せており、ある意味、「日本の最先端の場所」といえます。過疎、高齢化、交通の不便さというどこにでもある問題に直面しています。
人々の生活に根差して医療を行うという点では日本のどこにいても同じですが、ここには、より近くに「人」を感じられる土地柄があります。都会では味わえない医療があると実感しています。
ひょんなことからこの地域に移住した私が、家庭医としての日常、日々のあれやこれやを、つづってみたいと思います。
※千葉県南房総市の七浦診療所・田中かつら医師が連載を担当します

七浦診療所院長。
1959年、東京都目黒区生まれ。85年、川崎医科大学卒業。北里大学病院内科で臨床研修後、同病院神経内科研究員として勤務した。97年に医学博士号を取得。青溪会駒木野病院(東京都八王子市)老人性認知症治療病棟医長、鹿児島県大島郡医師会病院(鹿児島県奄美市)の非常勤医などを経て、2008年に千葉県南房総市で七浦診療所を開業した。廃校となった七浦小学校の校舎を改装し、17年に診療所を現在の場所に移転。介護、病児保育、日用品の販売などを行う施設を併設し、地域住民の暮らしを支えている。
趣味はダイビング(水中写真)、料理、音楽鑑賞、温泉巡り。夫はプロのパーカッショニストの田中倫明氏。夫婦で06年に南房総市に移住し、自然と向き合いながら生活している。

イラストエッセイスト。
「離島」と「ゲストハウス」と「廃れてしまいそうな郷土料理&民俗行事」をめぐる旅がライフワーク。これまでに118カ所(2023年4月現在)の日本の島、100軒以上のゲストハウスを訪れた。その土地の日常の暮らしに、「ちょこっとお邪魔させてもらうコト」が好き。著書に『島旅ひとりっぷ』(小学館)や『島好き最後の聖地 トカラ列島 秘境さんぽ』(西日本出版社)、『むう風土記~ごはんで紐解く日本の民俗・ならわし再発見録~』(A&F)など。松鳥むうwebサイト

七浦診療所総務職員、南房総市議会議員。
千葉県南房総市出身。1997年から吉本興業に所属し、高校の同級生であるマンボウやしろ氏(現在はラジオパーソナリティ、脚本家)と結成したお笑いコンビ「カリカ」のツッコミ担当として活動。2011年にコンビを解散し、事務所を退所したが、21年にマンボウやしろ氏と「ニューカリカ」を結成し、活動を再開した。現在も不定期でライブ活動や動画配信などを行っている。22年4月に南房総市議会議員に初当選した。