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2024.05.27

田中かつら医師(6)家庭医として大事なのは「経験」か「専門医」か 若手医師の輝く目とベテラン医師の揺れる心

田中かつら医師は千葉県南房総市に七浦診療所を開業して16年間、地域医療を支えてきました。医師歴は約40年で経験豊富な田中医師。でも、総合診療専門医を取得し、その上で家庭医のスペシャリストを目指す若い医師たちと働くと、彼らをうらやましく思うことがあるそう。

※4コマ漫画は事実を「少し」盛っています

作画:松鳥むう 原案:林よしはる(ニューカリカ)


自分よりも30歳も若い医師たちと仕事をすることがある。今の若い医師は患者との接し方がうまく、知識も豊富だ。目はキラッと輝いていて、迷いがない。彼らが優秀なのは間違いないが、自分のキャリアとの決定的な違いから、一層強く感じているのかもしれない。彼らは早い段階から「家庭医」を志し、専門にしている医師たちだ。全員が、まず「総合診療専門医」を取得するために学んでおり、その後、「家庭医療専門医」の取得を目指している。家庭医としての専門的な過程を経ずに開業し、16年間手探りでやってきた私は、どこか彼らをうらやましく思うことも多い。

文/田中かつら

「総合診療」のいま・むかし

普段は七浦診療所(千葉県南房総市)で働いているが、月に一度、隣の館山市にある小さな町に出向いて、地域住民向けに「健康講話」を開催している。医療機関から遠く、気軽に受診できない地区で、病気にならないための秘訣や健康意識を高めてもらうのが目的である。「糖尿病のあれこれ」「認知症になったときに行う七つのこと」「コロナ感染症の今」などをテーマに講話を重ねている。館山市にある亀田ファミリークリニック館山の家庭医診療科の若手医師たちと共に、交代で担当する。次回の内容を検討しているときに、彼らから、健康講話に顔を出していない人たちとも話すために「地域の人と一緒に歩くイベントをしよう」という提案があった。海に面した地区をみんなで散策して、住民から地域のことを教えてもらいつつ、各々の健康状態を確認しようというのだ。私にはない発想に驚かされた。

亀田ファミリークリニック館山は専攻医(初期研修後に専門医取得のための研修を受けている医師)27人と非常勤の医師を含めて50人以上が在籍しており、後進の育成にも熱心な医療機関だ。総合診療の専攻医は10人以上いる。総合診療は、2019年に始まった新専門医制度で新たに基本領域に加わった診療科である。臓器別に診るのではなく、診療科の枠を超えて幅広く全身を診療する。総合診療専門医は、病院で専門診療科と連携しながらあらゆる病気・病態の患者を診る「病院総合医」と、行政などと連携しながら地域住民の健康のために働く「家庭医」に分けられる。私と交流がある医師たちは後者である。医師になってすぐに家庭医のスペシャリストになるための勉強をし、臨床経験を積んでいる。

彼らと私のキャリアを比べてみるために、少し時をさかのぼってみたい。

私は1979年、川崎医科大学(岡山県)に10期生として入学した。当時は、講義で臓器別の疾患や診療方法を学び、それぞれの分野の専門医になるのが王道の時代だった。しかし、川崎医大付属病院には、国内ではまだ珍しかった総合診療科がすでにあって、大学では総合診療について学ぶ講義も設けられていた。親が開業医という学生が多く、その必要性が大きいことが理由だったのかもしれない。欧米の「ファミリードクター」のような医師の育成を早くから目指していたと聞いている。しかし学生時代の私は「総合診療ってなに?」という状態で、友人たちとも「風邪を診る科かしら?」と軽口を叩いていた。この時の私は、30年後に自分が開業し、家庭医になるとは全く思ってもいない。今では「総合診療科といえば川崎医大」といわれているそうだ。もっと深く学生の時に学んでおけばよかったと、今更ながら後悔している。

500床にたった一人の内科医

卒後は、専門を極めるという当時の王道を行き、北里大学付属病院(神奈川県)神経内科に就職した。神経内科を選んだのは自分で所見を取り、症状を分析し、疾患の病巣を見つけることの面白さがあったからである。入局後1年間は全ての内科をローテーションし、臓器別の専門知識を得る研修・診療が続いた。「神経内科の診療は全身を診ないとできない」という指導教授の教えがあり、専門科であっても体の隅々まで目を配る習慣がつき、そして今もそれが生きている。

卒後3年目に配属された北里大学東病院(2020年閉院、北里大学病院に統合)は、神経内科だけで100床もあり、研修医でも毎日20人以上を受け持っていた。そのかいあってか、9年目には超難関といわれる神経内科専門医試験に合格できた。

そして、この年、東京都八王子市にある駒木野病院に内科医として出向した。神経難病の患者も入院することが多い、500床の大きな精神科単科の病院だ。私以外は全員精神科医で、内科医はたった一人……! 「精神科医だから体は診られないんですよ」と助けを求めてくる医師たち。一人で全員を診療できるわけはないが、とりあえず身体のことはまず私が診て、時に近隣病院に協力を仰ぎながら、なんとか500人の患者を受け持っていた。

12年間、こんな環境にいて臨床を続けたので、内科的な診療の力が鍛えられたのは言うまでもない。加えて、認知症治療病棟が新設されたことで臨床経験を積むことができ、認知症関連の専門医を取得できたし、精神科領域の知識もある程度は身に付いたと思う。

突き詰めれば何だって武器になる

今から16年前に、思い切って七浦診療所を開業した。全身を診る神経内科医時代の経験、たった一人の内科医として大きな病院で働いた経験を生かすことができれば、困ることはないだろうと、あまり深く考えずに。もちろん以前も今も、地域の医療を支える家庭医として、知識を更新するためにあちこちの研修会や講演会に参加するようにしている。

ただ、家庭医としての訓練を積んでいる若手医師たちの揺らぎのない姿勢を見ると、こちらの心が揺らぐことがある。彼らは、家庭医としての知識はあるし、人間としても豊かだし、地域の活動にも積極的だ。眼科や産婦人科の研修も受けていて、何でもできるようにトレーニングを重ねている。本当にまぶしい存在なのだ。

若手医師と一緒に講話などを始めた時、患者紹介や情報提供で話をする時に、自分のやり方は正しいのかどうか不安になることが多くなった。そして、彼らの臨床経験をうらやましく思うこともある。しかし一方で、診療所ウェブサイトに掲載している「神経内科」と「認知症」の専門医という私のプロフィールを見て、診療を受けに来てくれる患者も少なからずいる。より高度な治療ができる専門医がいて、検査機器が備わっている大きな病院と連携し、通常の診療は主治医としてこの診療所で診ることができている。そんなときは、私のキャリアならではの強みが家庭医としての仕事に生かせている、と改めて感じることもある。私なりのやり方を継続しながら、この地域の医療を若い医師たちと一緒に守っていこうと改めて思う。


5月から、亀田ファミリークリニック館山の若手医師3人が、七浦診療所を交代で手伝いに来てくれることになりました。その中には、館山市での健康講話を一緒にやっている医師もいます。診療を手伝ってもらい、経験を積んでもらいながら、家庭医とは何かを、どんな診療をするのかを学ばせてもらおうと、私も新人に戻った気分で、これからの診療を楽しみにしています。

PROFILE

田中 かつら

七浦診療所院長。
1959年、東京都目黒区生まれ。85年、川崎医科大学卒業。北里大学病院内科で臨床研修後、同病院神経内科研究員として勤務した。97年に医学博士号を取得。青溪会駒木野病院(東京都八王子市)老人性認知症治療病棟医長、鹿児島県大島郡医師会病院(鹿児島県奄美市)の非常勤医などを経て、2008年に千葉県南房総市で七浦診療所を開業した。廃校となった七浦小学校の校舎を改装し、17年に診療所を現在の場所に移転。介護、病児保育、日用品の販売などを行う施設を併設し、地域住民の暮らしを支えている。 趣味はダイビング(水中写真)、料理、音楽鑑賞、温泉巡り。夫はプロのパーカッショニストの田中倫明氏。夫婦で06年に南房総市に移住し、自然と向き合いながら生活している。

松鳥 むう(4コマ漫画 作画)

松鳥むうさんのプロフィールイラスト

イラストエッセイスト。
「離島」と「ゲストハウス」と「廃れてしまいそうな郷土料理&民俗行事」をめぐる旅がライフワーク。これまでに118カ所(2023年4月現在)の日本の島、100軒以上のゲストハウスを訪れた。その土地の日常の暮らしに、「ちょこっとお邪魔させてもらうコト」が好き。著書に『島旅ひとりっぷ』(小学館)や『島好き最後の聖地 トカラ列島 秘境さんぽ』(西日本出版社)、『むう風土記~ごはんで紐解く日本の民俗・ならわし再発見録~』(A&F)など。松鳥むうwebサイト

林 よしはる(4コマ漫画 原案)

林よしはるさんのプロフィールイラスト

七浦診療所総務職員、南房総市議会議員。
千葉県南房総市出身。1997年から吉本興業に所属し、高校の同級生であるマンボウやしろ氏(現在はラジオパーソナリティ、脚本家)と結成したお笑いコンビ「カリカ」のツッコミ担当として活動。2011年にコンビを解散し、事務所を退所したが、21年にマンボウやしろ氏と「ニューカリカ」を結成し、活動を再開した。現在も不定期でライブ活動や動画配信などを行っている。22年4月に南房総市議会議員に初当選した。