救急で日本の医療をより良くする。 そのための、「ちょっと背伸び、ちょっと挑戦」。
地域医療の求める医療ニーズに応える――あまりに当然で、かつ容易く実現できないそのテーマを克服する鍵は救急にある。地域医療の維持、あるいは再生に欠かすことのできないファクターとして救急に向けられる関心は、年とともに強くなるばかり。東京ベイ・浦安市川医療センター救急科部長の志賀隆氏は、救急を通して日本の医療をより良くするため、臨床と医師養成の両面に情熱を注いでいる。卒後すぐに医局を離れ、海の向こうで学んだER救急の粋を日本の医療の未来のために水平展開させている。
民営化された市民病院を舞台にアメリカ型ER救急を展開
2011年、気鋭の救急医が東京ベイ・浦安市川医療センターの救急科部長に着任した。ハーバード大学マサチューセッツ総合病院で指導医として活躍していた志賀隆氏がその人だ。 「発端は、2009年ごろに、米国財団法人 野口医学研究所野口アラムナイアソシエーション(海外での研修を終え、国内外で活躍する医師たちが中心となって設立された組織)の関係者との交流の中で、『日本にありながらアメリカ型の教育を標榜する病院で、救急の責任者を務めてみないか』とのお声がけをいただいたことでした。
夢のような、素晴らし過ぎるお話であったため、一度はお断りしたほどです(笑)」
「夢のような素晴らし過ぎるお話」の舞台となったのは、民営化施策にともないJADECOM(公益社団法人 地域医療振興協会)による運営となった浦安市川市民病院。同院は2009年に新病院名を東京ベイ・浦安市川医療センターに決定し、2012年の新施設完成と同時に「医療を通じ地域の絆を育みます」との理念を掲げ新病院の運営を開始した。志賀氏は、その初代救急科部長を引き受けた。
彼に帰国の意志があると知った他の大学や病院からもオファーがあったが、「素晴らしすぎるお話」に賭けた。
「他のお話を受けた場合、大きな組織に飛び込み堪え忍ぶことになるのは目に見えています。組織の一コマに納まる努力より、新しい組織を作る仕事により大きな魅力を感じました」
選択の根拠は。
「当院が救急医療を基本ミッションと定めていたこと、留学経験者も多く、やる気のある医師が結集していたこと、管理者、センター長が信頼できる方々であったことなどが背中を押してくれました。『日本の救急をより良くしたい』という、私の医師人生の目標を実現するには、最適な環境が得られると確信しました」
ロールモデルのある学びの場としてのER
彼が築いたのは、常に合計10名以上の医師が院内に勤務する365日24時間体制の救急体制。救急科のスタッフはすべて専属で、他科との兼任はない。その結果、2015年には1日に20台前後の救急車を受け入れ、救急車受け入れ率95%以上の実績を残す救急科となった。
「徒歩でもタクシーでも救急車でも、来院患者はすべて診ます(※4歳未満の小児内因性疾患は小児科が担当)。各科との間に診療上の合意文書を作成し、すべての診療領域で専門医と連携のできた質の高い救急医療を提供しています」
もちろん、医師ならびにスタッフ養成の体制づくりにも注力した。臨床の現場をそのまま医師教育の場と考えるER救急を中心に据え、シミュレーション教育の手法も導入し、総合力のある救急医を育てている。
「当院のERは、しっかりとしたロールモデルのある学びの場になっています。標準的な救急医療の臨床現場での教育が、しっかりと確立しています」
医師養成プログラムの特色を問うと。
「当たり前のことを当たり前に、しかも高いレベルで行っていることといえるでしょう」
では、その「当たり前」とは?
「エビデンスに基づいて講義もする、ベッドサイドの教育もする。患者中心の医療を提供する。それだけです。言葉にすればそれだけのことですが、共存できている医療機関は日本には少ないです。 当たり前を堅持することで、医療に一貫性が生まれます。一貫性の中で培われた個性こそが、医療の未来を担うに足る実力を帯びた個性なのです」
レジデントとして、とてもお世話になったメイヨー・クリニック救急科部長のDr.Sadostyと。2006年ごろ。
医師養成も成人教育のひとつ 個別化し寄り添っていく
志賀氏はインタビューの場に、ネクタイを締めたスーツ姿で現れた。白衣に腕まくりし、常にオンコールで臨戦態勢--そんな救急医のイメージをくつがえすかのようなスマートな出で立ちが印象的だったのだが、以下の話を聞いたとき、やはり、実は、水面下で激しく足を掻き、体を張って理想を体現しているのだとわかった。話題は、成人教育について。
「医師養成に肝要なのは個別化し、寄り添うことです。これは医師に限らず、すべての成人教育に通底することと思うのですが、本人の意志を見極め、育てる方向、育つ方向をともに模索する以外に成功の道はありません。成功の道は10人いれば10通り。その人だけのオンリーワンの道を個々に歩む手助けをしていきます。
私は、それが専門を救急に定めた卒後6年目であっても、初期臨床研修のローテーションで来た研修医であっても、まずはすべての人に希望をインタビューし、その人にとって最善の道を考えます。たとえば出身校や、親が医師か否かといった背景の違いは、医師の希望に一定の傾向を生み出すものですが、指導医はそういった部分も理解し、受け入れ、寄り添い続けるのが使命なのです」
プログラムに放り込めば所定期間を経て所定の質の人材がはき出される世界ではないだろうとは思っていたが、救急医養成の現場が個別化を前提にした教育の場であるとの解説には、深く納得するとともに強い衝撃もおぼえた。
日々、患者の生死がかかることも多いぎりぎりの医療に取り組みつつ、配下の医師の個々の状況に寄り添いながら後進育成に注力する救急指導医のハードワークに、一市民として頭を垂れる思いだ。つまりは、「成人教育の当たり前を医師養成の場でも当たり前に実行すべきなのは、もちろん、エビデンスに基づいた『当たり前』の方法論です。その当たり前が、とても難しいのですが」ということなのだろう。
達人の極意に触れた感動と同時に、無私のハードワーカーの凄みに感銘を受け、圧倒された。
ER救急と日本の救急はやがて融合し、社会に資する
医療界にある程度精通した者の間では、「ER救急を推進する勢力とそれに懐疑的な勢力の対立図式」が認識されている。もし対立があるのなら、その最前線に立っているであろう志賀氏に率直に疑問を投げてみた。
「たしかに以前の日本には対立があったかもしれません。私も体感したことがあります。しかしもう、解消されつつあるのではないでしょうか。少なくとも私には、まったく気になりません」
1970年代にピークを迎えた高度経済成長期に交通事故の重度外傷と重度火傷などの受け入れを念頭に構築された、日本独特の三次救急を頂点とした救急医療体制と、欧米で発展したER救急。後者が日本にないことに危機感をいだいた有志が声をあげ、実践を開始した1980年代以降からここまで。医療界の情報を聞きかじる立場の者たちの耳には「非難合戦」とも受け取れる事例やエピソードが流れ込んだものだ。
「三次救急や救命救急センターの制度に異論をとなえる人もいるようですが、歴史の要請に従って大事な役割を立派に果たしてきた制度です。一方で、ER救急に優れた部分があることも事実です。
要は、いかに社会の役に立つかにあるのですから、優れた点を残しつつ融合すればいいのではないでしょうか。私の目には、それはすでに始まっているように映ります。歴史ある三次救急の担い手が、ERの実践にも乗り出す事例が少しずつ現れていますから」
くじで決まる進路に落胆 自分で選ぶ医師人生が始まる
志賀氏は親から「人生は自分で選べ」との薫陶を授かり育ったという。
「漠然と進路を選び、高校では理系クラスに進んでいたのですが、あるとき、教育実習の先生に『君たちは知らないだろうが、世の中は文系が支配しているのだぞ。成績優秀で理系に進んだなんて思い上がっていたら、大人になって惨めな思いをするんだよ』と、衝撃的な事実を知らされ(笑)、真剣に将来を考えるようになりました。
この進路の先に、やりがいのある人生とやりがいのある仕事をとイメージしたとき、答えは医師となりました」
そして、医学部へ入学。このあたりから、「自分で選ぶ人生」が回転を高めていった。医学部在学中に、ふたつの衝撃を得て今の彼がいるという。
「ひとつめの衝撃は、赤津晴子先生の書かれた『アメリカの医学教育』。同書でアメリカの事情を知るにつけ、日本では学生本位ではなく教える側の思考だけで医学教育が行われているとわかりました。
もうひとつの衝撃は、アメリカのTVドラマ『ER』。救急の現場でさまざまな患者や症例に立ち向かう医師たちが、つまりは社会の諸問題にも対峙している姿が、あまりに格好良かったんですね。
日本の医学部で教えていることとまったく違う医学教育や医師養成が海の向こうにある。その事実が、私の知的好奇心を激しく揺さぶったのだと思います」
そんな志賀青年は医学部1年生時から、卒業した先輩に「卒後はどうなるのだ」と聞いて回っていたそうだ。リサーチ活動の中で、やはり衝撃の事実を知っていく。
「大学医局に入るとどんな病院で学べるものなのかと質問すると、『派遣先は、くじで決めるんだ』と言う。臨床医にとって大事な卒後の時期の職場が、くじ!
今となっては『そういうのも、ありかな』と思えますが、当時の私にとっては『とんでもない』ことでした。自分で選べない人生なんて、あってはならないと思っていましたから」
このときすでに、志賀医師の医局離脱は決まっていたといえるだろう。6年生時には、医学教育振興財団の短期留学でイギリスのバーミンガムへ行き、ジェネラルプラクティスを見聞。総合診療の幅広さ、臨床医としての魅力に目を奪われ、総合医療を進路と決める。もちろん、研修先はすべて自分で考え、探した。はじき出した答えが、東京医療センターだった。
「救命救急センターがあり総合診療科の実績がある研修病院を候補として絞り込んで行った結果、その答えとなりました。
東京医療センターは公立病院最大で最古の総合診療科があり、しかも救命センターもありました。当時、初期研修もすでに20年以上前から始めていたはずです」
東京医療センターでの2年間の初期研修修了後は、アメリカで救急医学の研修を受ける構想を立て、そのためのルートとして、沖縄の米国海軍病院での研修を選ぶ。同院で1年間学びながらUSMLE(アメリカ医師国家試験)の勉強をし、続いて同じ沖縄の浦添総合病院に2年間勤務しながらアメリカの病院のいくつものマッチングに応募した。
「浦添総合病院では、麻酔・救急・集中治療に力を入れて取り組みました。ドクターヘリで離島医療にも従事し、貴重な体験を重ねました」
アメリカの医師にとっても難関 10人にひとりの関門を突破して
渡航先は、最終的にメイヨー・クリニックになった。これはかなりの難関を突破してのことだ。
「救急でのマッチングは、アメリカの医学部でトップ10に入っていないと進めない道なので、外国人の私にはかなりの難関だとのアドバイスを得ていました。だから、死にものぐるいで勉強しました(笑)。推薦状を得るために、情報収集し、かなり精力的に行動もしました」
渡米後の日々は、水を得た魚のようだった。メイヨー・クリニックにはレジデントとして3年間在籍し、次いでハーバード大学マサチューセッツ総合病院でフェローシップとなる。アメリカの救急専門医資格を取得する過程で、教育、特にシミュレーション教育にも関心が向いていった。
「メイヨー・クリニックでは月に1回、必ずシミュレーション教育が行われていて、とても質が高く、感銘を受けました」
シミュレーション教育を学びながらマネージメントとリーダーシップなどの基礎力をつけることもできる場として、同院での2年間のフェローシップを選んだ。そこでは救急部のスタッフとして臨床に従事するかたわら、ハーバード大学の医学部で学生を教え、病院で学生やレジデント、ナース・プラクティショナーを教えた。公衆衛生修士(Master of Public Health)を取得する課程では、シミュレーションを使った臨床研究にも取り組み、医療安全、コミュニケーション、マネージメント、医療経済、医療政策などをハーバード大学公衆衛生大学院で精力的に学んでいった。
医師という夢追い人 ちょっと背伸びしてがんばる
そして、2009年、東京ベイ・浦安市川医療センターとの運命の出会いに従って帰国した。
「自分で選ぶ医師人生」の道を邁進した結果、志賀氏の中には現在、「日本の救急をより良くしたい」という人生のテーマが生まれている。
「個人的なイメージとして、親子げんかの仲裁をするシーンが思い浮かぶのですが(笑)、いつの時代にも社会のニーズと医療の間にはそれをうまくマッチングさせることが求められます。
マッチングの大任を果たせる仕事のひとつが、救急だと思います。ですから、救急をより良くすることは日本の医療全体をよりよくすることになると信じて日々がんばっています」
2011年、Best Medical Education Research Awardを授賞した記念に。ハーバード時代の恩師のDr.GordonとDr.Krupatとともに。
しかし、なんとも類例のない歩みである。卒後すぐに医局を離れ、渡米を決める勇気の源泉はどんなところにあったのだろう。
「両親から『人生は自分で選べ』と教育されたお話はすでにしましたが、先祖を辿ると戦国時代の武将にまでさかのぼる家系で、時代の局面局面で反骨の人を何人も輩出していたようです。血のなせる技なのでしょうか(笑)、医局のヒエラルキーを登る考えは一度も持ったことがありません。
驚きの声を聞かされたことは何度もありますが、正直、なぜ驚かれるのかが理解できません。私にとっては当然の選択をしただけのことです」
大事にしている言葉を訊いた。
「『ちょっと背伸び、ちょっと挑戦!』でしょうか。それは、夢を実現させる秘訣にもなると思います。
大人になってからの夢は、子供のころの夢とは違います。3年後、5年後の自分はどこにいるのかと、最終形を常に考えながら次に向かって準備をする。現実的な目標を策定し、やりとげる繰り返しを続けるうちに、より大きな成果が得られる。そんな繰り返しの中に身を置くことができる職業のうちのひとつ、それが医師なのだと思います」
志賀 隆先生
2001年 千葉大学卒業。東京医療センターで初期研修修了。
2003年 沖縄の米国海軍病院にて研修を受けつつ、USMLE(アメリカ医師国家試験)の勉強。
2004年 浦添総合病院に勤務。
2006年 米国ミネソタ州メイヨー・クリニックにて研修。
2009年 ハーバード大学マサチューセッツ総合病院で指導医として勤務。
2011年 東京ベイ・浦安市川医療センターの救急科部長となり、現在に至る。
(2015年10月取材)