2022.05.17
群馬県長野原町へき地診療所に着任して、8年目を迎えた金子稔所長。看護師の妻、二人の子どもと暮らしています。一時は、仕事と家庭の両立に、音を上げたこともありました。どのようにして乗り越えてきたのでしょうか。
私が勤務する診療所に実習に訪れた医学生から、家族について質問されることがある。「奥さんとはどこで出会ったのか」「一緒に暮らしているのか」「へき地で働くことを家族はどう思っているのか」。患者さんから「家に帰っているの? 子どもが寂しがるわよ」と心配されることも、たまにある。今回は、その問いに答えるつもりで、このコラムを書いてみようと思う。
文/金子稔
2022年4月、群馬県長野原町へき地診療所に着任して8年目を迎えた。実家がある前橋市に20年に一軒家を建て、看護師の妻、小学2年生の長男、小学1年生の長女と4人で暮らしている。
とはいっても、仕事次第で帰れない日も多い。だいたい、月曜日は診療所近くの西吾妻福祉病院で宿直に入り、火曜日と木曜日は病院の官舎に寝泊まりする。なので、家族に会えるのは多くて週4日。さらに、長野原で在宅看取りがある時は、2週間自宅には帰らないということもある。
「パパ久しぶりだね。会いたかった!」。ある金曜日の夜、息子と娘が、1週間ぶりの帰宅を満面の笑みで出迎えてくれた。ありきたりだけど、この瞬間に疲れを忘れてしまう。「家族っていいな」としみじみ思う。家族に支えられて、やりたいことができているのだと実感する。

実は、数年前まではこんな感情は抱いていなかった。「『俺』が家族を支えているんだ」とうぬぼれていた。正直、妻とはめちゃくちゃけんかしたし、雰囲気が良くない時期もあった。
時間を少しさかのぼりたい。
妻と出会ったのは、21歳、自治医科大学2年生の頃。看護学部の新入生で、私が所属する野球部にマネージャーとして入ってきた。一目ぼれして、それから交際をスタートした。
先に卒業したのは彼女で、千葉県内の病院で看護師として働き始めた。2年後、私は地元の群馬県で研修医になった。一時は遠距離恋愛も経験したが、2011年の東日本大震災をきっかけに「こんな時こそ一緒にいたい」と思い、研修医2年目だった12年に結婚。前橋市で一緒に住み始めた。妻は群馬大学医学部付属病院で働き出し、14年夏に長男が、16年春に長女が生まれた。
長男が1歳になる前に長野原町へき地診療所の勤務となり、西吾妻福祉病院の官舎での生活が始まった。1年後には長女が生まれ、4人暮らしに。この頃は、慣れない育児、慣れない診療所での勤務ということもあって、ストレスから毎晩お酒を飲んでいた。子どもの世話も手伝わず、泣いている子どもを叱りつけることもあったし、妻に対して良くない態度を取ることが増えていた。

それでも、へき地の医療を続けていきたいという思いは強かった。妻も最初のうちは仕事と家庭を両立できるか心配していたが、仕事ぶりを見て、応援してくれていた。そんな中、妻の育児休暇が終わる時期が近付いていた。
通勤や子育てのことを考慮すると、妻が元の職場に復職し家族で前橋に拠点を移すか、退職して長野原にとどまるかのどちらかであった。妻は看護師の仕事に誇りを持って頑張ってきたので、育児もしながら仕事もしたいということだった。私はというと「夫、父は家族と暮らすのが当たり前」と思っていたため単身赴任の選択肢はなかった。ただ、妻には働いてほしいが、前橋に拠点を移すと毎日片道1時間かけて長野原との間を往復することになり、医療のレベルを維持できるか不安を感じていた。
何度も話し合い、けんかも何度もした。結果的に、2018年秋、前橋の私の実家から車で5分ほどの所にアパートを借り、長野原に通う生活が始まった。「父親としての役割」を果たすために最初は、毎日帰らなければと躍起になっていた。しかし、そんな生活も長くは続かなかった。インフルエンザの予防接種、往診、在宅看取りなどが立て込み、帰れない日が続いていたのだ。
その日も遅くまで働き、自宅へ帰ろうとしたが、体が動かなかった。「もう無理……」。妻に電話した。その時、妻は「帰れなくてもいいんじゃない」と以前から繰り返していた言葉を言った後、その真意を説明してくれた。それによって、心がスッと軽くなった。

私は「〇〇すべきだ。〇〇しなければいけない」と考える傾向がある。この時も、父として家にいなければいけないという思いから、無理をしていた。
振り返れば、それまでも妻は「忙しい時は無理に帰ってこなくても大丈夫」「看取りがある時は優先して」などの言葉をかけてくれていた。その時は、「大黒柱の俺が家にいないといけないんだ。それが良き夫であり父なんだ」というある種の思い込みから、「帰ってこなくて大丈夫なわけないだろ」という反発心が生まれ、素直に受け入れられなかった。夫、父親として、必要とされていないんじゃないかという不安もあった。要するに、心にゆとりがなかったのだと思う。
それが、身も心も限界を迎え、胸の内にしまい込んでいた本音を吐き出したことで、妻の言っていることがすんなりと受け入れられたのかもしれない。妻はこう話した。「私も好きなことをやっているのだから、あなたもそうしてほしい。私は、あなたのやりたいことを支えます。だから疲れていたら帰ってこなくていいし、帰ってくる時はご飯を作っておくからね。看取りとかで長野原にいなきゃならない時はそっちにいてください。私たちは大丈夫だから、しっかりやりたいことを成し遂げてください」
救われる思いだった。父親や夫の在り方に正解はない。理想はあった方がいいと思うが、しがみつくのは良いことではない。そう考えるようになった。

また、私の両親や弟夫妻、妻の両親や義理の兄弟たちにもとても感謝している。妻の仕事が遅くなる時や休日に、子どもたちの面倒を見てくれ、みんな本当によく協力してくれている。周囲の協力を得られる点で、実家の近くに住む選択肢は正解だったと思う。
へき地の医師としての理想は「その土地に住み、その土地の人たちと共に生き、役に立つ」ことだ。しかし、全てのへき地の医師がその土地に住めるかといえば、そうではない。それぞれに事情がある。だが、なるべく、その土地に根差した医師であろうとすることはできる。その意思はぶれない。私の場合、前橋と長野原を行き来するようなライフスタイルではあるが、家族の協力を得ながらできるだけ長野原に身を置き、働こうと思っている。

最後に、子どもたちが私の仕事をどう思っているのかについて。
休日は、家族全員で餃子を作るのが定番だ。そして、一緒に運動したり、カードゲームのUNO(ウノ)をしたり、できるだけ団らんの時間を作っている。しかし、患者の状態によっては家族旅行などの予定をキャンセルしなければならないこともある。自宅に帰れそうと伝えていた日に帰れない場合もある。寂しい思いをさせることも多い。そんな時は「パパ嘘つき」と一瞬怒られる。でも、「患者さんのためならしょうがないよね」と理解してくれているようだ。
長男は今、10月に行われる小学校のマラソン大会に向け、特訓中。その日は休みを取って、絶対に応援に行きたいと思っている。
群馬県北西部に位置し、山林・原野が町の80%を占める。5409人、2509世帯(2021年9月)が暮らし、高齢化率は32.8%(15年。全国平均は26.6%)。前橋市まで車で1時間強、東京都心までは3時間弱。温泉や牧場、ゴルフ場やキャンプ場があるほか、町の南部の北軽井沢地区は別荘地で、夏場は蜂に刺された人やレジャーでけがをした人がへき地診療所に訪れることもある。長野原町ホームページ

1984年、前橋市生まれ。2011年に自治医科大学卒業後、13年に群馬大学医学部付属病院で初期研修を修了。同院救急部を経て15年、長野原町へき地診療所の所長に就任。勤務しながら、17年には群馬大学大学院医学研究科で博士号を取得している。趣味は家庭菜園、野球、ボウリング(ベストスコアは238)、ランニング(月間250㎞走ることも)、ダイエット(96㎏→70㎏)。「汗をかく。人の2、3倍頑張る」がモットー。
