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2017.09.20

独立行政法人医薬品医療機器総合機構(PMDA) 理事長 近藤 達也先生

患者に向き合う感覚とレギュラトリーサイエンスを駆使し、
薬事行政改革を担う脳神経外科医が見据える、創薬新時代。

患者に向き合う感覚とレギュラトリーサイエンスを駆使し、 薬事行政改革を担う脳神経外科医が見据える、創薬新時代。

いろいろなタイプの医師がいる。資質の点から語るだけでも、患者さんの心を掴むために生まれてきたような、人柄の際立つ、いわば人文学系タイプから、思考のすべてが高等数式で演算されているかのような超絶理科系タイプまで幅広く、多彩だ。
近藤達也氏は、「時代が許せば、医師ではなくエンジニアになりたかった」と告白する人だ。しかし、第一志望ではなかった医師の世界に、エンジニア的資質も発揮できるフィールドがあった幸運を120%活かし、臨床に研究に縦横無尽に活躍した。活躍は、医師免許取得後50年を経た今も現在進行形だ。
独立行政法人医薬品医療機器総合機構(以下、PMDA)理事長として、日本の創薬、創医療機器を世界最高峰レベルに引き上げる大仕事に、鋭意汗を流しているのである。

レギュラトリーサイエンスの推進者であり、実践者である

行政に関係する学問といえば、法学、経済学などが、すぐに頭に浮かぶ。ところで、科学はどうだろう。地球千年の計である環境問題から、市民の生活の隅々にまで人類の英知たる科学が脈々と息づいている現代、無用と切って捨てる主張はないはずだ。ただ、行政や為政と科学(アカデミックサイエンス)とは、常に良好な関係を保って歩んできたわけではない。科学が生み出した価値を行政がいかに正しく操り、社会を豊かにするかのプロセスについては、営々とトライ&エラーが繰り返されてきた人類史といえるだろう。

近藤達也氏は、レギュラトリーサイエンスを推進し、実践する人だ。レギュラトリーサイエンスとは、1987年に内山充博士が創始した「科学技術を人と社会に役立てることを目的に、根拠に基づく的確な予測・評価・判断を行い、科学技術の成果を人と社会との調和の上でもっとも望ましい姿に調整する」ための科学(第4次科学技術基本計画の記述より抜粋)。従来の基礎科学、応用科学の思考軸に加えて「行政科学」――規制政策に科学的根拠を与える科学――と、「評価科学」――科学の所産を人間との調和の上でもっとも望ましい姿に調整(regulate)して方向付けていく科学であり、健康や環境に対する有害性を予測し防止する科学――を提示したとされる。

近藤氏は2008年のPMDA理事長就任に際し、レギュラトリーサイエンスの「レギュラトリー」を規制ではなく調和と訳すべきと提唱。民主主義下の薬事行政が性悪説にもとづき国民を保護するために、多くのエビデンスを検証し、厳密な科学的判断をする仕組みが必要で、レギュラトリーサイエンスこそがそれだと解説した。
「規制を『裁量』と理解するのみでなく、薬事行政に『社会への適応の判断をテーマにした科学』ととらえるレギュラトリーサイエンスを組み込むことによって、その未来が一気にひらけたといえます」

科学を人々の役立つ価値に転換するための行政機構もまた、的確な判断のために科学を操らなければならない――。レギュラトリーサイエンスを行動規範の中心に置くことで、厚生労働省のもとで規制当局の一翼を担うPMDAが、創造的かつスピーディな活動を展開する組織に生まれ変わっていった。

すでに海外の規制当局は、レギュラトリーサイエンスの必要性に気づいている

2017年現在、レギュラトリーサイエンスは、まだ広く一般に認知されているとはいい難い状況だ。しかし、近藤氏に焦燥の気配は見えない。

「この理念は現在、FDAやEMAといった海外の薬事規制当局がたいへん重視するようになっています。もちろん、日本発のものだとしっかり認知されていますし、敬意も払われているので、私の気分はかなりいいです(笑)。アメリカ、ヨーロッパに出かけた際には、多くの関係者からさまざまな質問が飛んできますので、レギュラトリーサイエンスが理解され、採り入れられているのを肌で感じます」

数年後、あるいは10数年後、逆輸入のかたちで日本国民の耳目を集めるのではないか。「あの、話題のレギュラトリーサイエンスは、実は、日本で生まれたものなのです!」といった、過去、何度も目にしたパターンだ。近藤氏のもとに取材の申し込みが殺到している様子が目に浮かぶ。

その際、少なくとも医師諸氏には、一般国民より先んじた理解を身につけていてほしいものだ。医薬品や医療機器が開発されるプロセスを語るとき、「科学」という言葉がアカデミックサイエンスをさすこともあれば、レギュラトリーサイエンスをさすこともある点が共通認識となっていてほしい。

近藤氏とPMDAはたった今も、レギュラトリーサイエンス推進を重要課題に据えている。理事長就任後、すぐに着手したレギュラトリーサイエンス推進部の設置や、人材育成のための連携大学院運営に加え、2018年度にはレギュラトリーサイエンスセンターの開設も決めている。

「レギュラトリーサイエンスセンターでは、新規の作用機序の革新的な医薬品が最適に使用されるためのガイドラインの作成など、医療現場やアカデミアとも協力し、レギュラトリーサイエンスを基本にした『合理的な医療』を積極的に支援していく構想です」

世界で唯一、健康被害救済、承認審査、安全対策を担う公的機関

PMDAは2001年に閣議決定された特殊法人等整理合理化計画を受け、国立医薬品食品衛生研究所医薬品医療機器審査センターと医薬品副作用被害救済・研究振興調査機構及び財団法人医療機器センターの一部業務を統合し、2004年に設立された。1980~90年代に巻き起こった薬害被害問題、そしてドラッグラグに関する国民的関心を受け、政府が力を込めて紡ぎ上げた新機構だ。

おもな業務は、医薬品の副作用や生物由来製品を介した感染等による健康被害に対して迅速な救済を図り(健康被害救済)、医薬品や医療機器などの品質、有効性及び安全性について治験前から承認までを一貫した体制で指導・審査(承認審査)する一方で、市販後における安全性に関する情報の収集、分析、提供(安全対策)も行う。健康被害救済、承認審査、安全対策の3つの役割を一体として行う公的機関は世界で唯一といわれている。

「欧米では3つの役割は、インディペンデントです。もし、承認審査と安全対策が裏で結託したなら、何が起こるかわからないという危惧をベースにしています。健康被害救済にいたっては、概念そのものがありません。健康被害の問題は訴訟でかたづけるものだとされているからです。

日本ではPMDAがその3つを一手に引き受けていますが、この日本独自のやり方で、ハイレベルな運用ができると自信を持っています。大事なのは、それぞれに高い透明性を保つことと、3つの業務がつくったトライアングルの中心に国民がいること。国民という言葉は意味として『患者さんのために』というスローガンに置き換えることもできます。

『患者さんのために』が共有された中で透明性が保たれていれば、3つの役割が1機関に統合されることは、むしろ効率性と迅速性を生み、より大きなメリットをもたらすのです。私たちは、誇りをもって『セイフティ・トライアングル』と称しています。

『セイフティ・トライアングル』をフルに機能させ、レギュラトリーサイエンスにもとづき、より安全でより品質のよい製品をより早く医療現場に届け、医療水準の向上に貢献していく気構えです」【図版1/PMDAの果たす3つの役割(PMDAのHPより流用)】

エンジニアへの憧れを抑え、医師の道へ。しかし、家業継承するつもりはなかった

1942年、東京の開業医の息子として生を受ける。鉄道少年で、早くからエンジニアへ憧れを持っていた近藤氏だったが、進路選択については父親の助言に従った。
「父親の意思が絶対の時代だったこともありますが、息子の何を思い遣っているのかがわかるところもありました。あの世代には、敗戦の実体験があります。父にとっては、敗戦処理の中で、総理大臣まで務めた人物が死刑に処せられたのが、かなり衝撃的だったようです。具体なやりとりがあったか否か記憶が曖昧ですが、いつしか、『医学の道を進めば、いくら出世しても戦争の矢面に立たされることはないのだよ』という父の考えを受け止めていました」
親の望みを受け入れ医師を目ざしたが、家業継承といった安易な道は望まなかった。医学者として、医療従事者として、どこまで行けるかを追求する人生を、勇躍歩み出した。選択は、当時生まれたばかりの脳神経外科だった。

1969年、東京大学・佐野圭司教授の脳神経外科教室へ入局。1965年に脳神経外科が正式な診療科として制度認可されて4年後のことである。

「たとえば当時、脳卒中や、くも膜下出血は内科医が診ていました。脳神経外科医は動脈瘤の疑いがある患者さんを見つけると、主治医の許可を得てから、当時の唯一の武器である血管撮影を実施し、外科的治療の必要性を証明するような苦労を重ねていました」

雌伏の時代であったが、近藤氏は佐野教授の推進する丁寧な手術、綺麗な手術に確信を持ち、黙々と修業。技量の向上に邁進した。
修業の舞台、活躍の舞台は国立東京第一病院(現:国立国際医療研究センター)。国立病院で初めて脳外科の看板を掲げた医療機関である。途上、東京大学での勤務、海外留学の時期は挟むが、1972年に着任して以降、一貫して同院で活動した。

臨床に、研究に――黎明期から参加した脳神経外科の発展に、縦横無尽に貢献。

脳神経外科の世界的なブレイクスルーは、手術用顕微鏡の導入によるマイクロサージャリーの確立だったといわれる。1970年にはコンピュータ断層撮影(CT)が、さらにはMRIが登場し、診断技術の精度向上に合わせるように、脳神経外科も長足の進歩を示す。社会的地位も加速度的に高めていった。エンジニアへの夢をいだいていた医師は、臨床に成果を残すと同時に、このフィールドの独特の側面でも大活躍した。
「創意工夫が好きで、得意だったので、気づいたことを形にしてみるチャレンジは朝飯前という感じでした」

放射線治療における照射精度をもっと上げられないものかと着想した創意工夫は、1992年にNEDO(国立研究開発法人新エネルギー・産業技術総合開発機構)の支援を受けた全身用定位放射線治療装置の開発につながる。このプロジェクトは、プロトタイプの完成にまでこぎ着けた。
「結果的に、実用化は同様の機能をもったアメリカのサイバーナイフに先を越されてしまいました。悔しいですね。いい訳ではありませんが、日本の放射線医があの構想にもう少し興味を示し、協力的でいてくれたら、実用化はこちらが先んじたと思っています」

脳神経外科医が定位放射線治療装置の開発を? 縦割りや縄張り意識から逃れられない人々は、違和感がぬぐえなかったのだろう。規格外、規定破りを称賛できる機運が日本にあれば、もっと大きな成果を残したのではないだろうか。

着想に頸木(くびき)のない近藤氏は、基礎研究分野にも足跡を残している。脳腫瘍の細胞培養の過程で新たな増殖因子のFGF-9(Glia Activating Factor)を発見したのだ。これは神経系の細胞(グリア細胞、神経細胞)の増殖に関与するだけでなく血小板の増殖にも作用するとわかり、将来、新薬になる可能性がきわめて高いと評価されている業績だ。

そして2003年、国立国際医療センター(現:国立国際医療研究センター)の院長となる。新院長は「高度専門・総合医療」を新機軸と定め、そこをバックボーンに、エイズをはじめ新興・再興感染症、肝炎、免疫、糖尿病・代謝症候群など多くの専門領域の政策医療、 研究への積極参加、そして国際協力と、同院の新時代を切り拓いていった。

ちなみに、PMDA理事長となった現在も月に2度ほどの頻度で出身母体/国立国際医療研究センターでの外来診療を行っているとのこと。
「午前中限定で、以前担当した患者さんの術後のフォローを続けています。一見、理事長業務に無関係と映るかもしれません。しかし、私は、現役臨床医に必須な『患者さんへの責任感』は、医療のイノベーションに通底すると思うのです」

日本の創薬、創医療機器開発能力は、すでに世界トップクラスだ

国立国際医療センター院長からPMDA理事長への転身は、2008年。新理事長がいかなる端緒をもって新施策を展開していったかは、冒頭に記した。ところで、医官(行政官)でもなく、学者でもなく、旧国立病院の運営者が、この特殊任務を帯びた機構の指揮官の座を得ると予測できた者は、当時どれほどいたのだろう。実は前任者の退任から近藤氏の就任まで、3カ月ほどの間、理事長の席は空位だった。激動の時代に高度な使命を帯びた組織を任せるに足る人物の選定だけに、想定外の時間を要したようだ。それが混乱だったのか、熟慮だったのかは知る人のみが知ることだが、「旧国立病院院長に、適任者がいる」と発した慧眼の持ち主がいたことだけは確かなようだ。臨床を知り、なおかつ新薬開発にも医療機器開発にも能力、経験のある人材――。恐る恐るないものねだりをしてみたら、天からの贈り物のように該当者がそこにいた! 関係者の快哉はいかばかりだったろうか。

抜擢が的を射ていたことは、たとえば新薬の審査機関の短縮で見ることができる。1990年代にドラッグラグ(=日本は新薬の承認に時間がかかりすぎる)をなんとかしてくれと、新薬を欲する多くの患者さんから悲鳴のあがっていた問題だ。アメリカのFDA、ヨーロッパのEMAと比較した時、絶望的に長かった審査期間を、新理事長は瞬く間に短縮し、現在では見事に凌駕する水準におしあげて見せた。【図版2/2007-2016年における新有効成分の審査期間(中央値)の比較】
「新薬審査期間は、2014年に欧米を追い越して以来、世界一の速さで行われています。元来底力のあった日本の創薬、創医療機器が、これまで以上に成果をあげる日がやってくると確信します」

日本は新薬承認に時間がかかる、本当の意味での新薬開発は欧米の巨大製薬メーカーに独占されていて日本のメーカーは二番煎じばかりだ――。そんな認識が、一般国民はもとより業界の周辺あたりにまで確実にあったと思う。近藤氏は、そんな少々古い一般常識を笑い飛ばすかのように見解を示す。
「たとえばiPS細胞に代表される再生医療が好例ですが、そのほかにも日本が世界を牽引する分野はすでにいくつもあるのですよ。私は、欧米諸国のリーダーとお話をする機会を得るたび、日本の動向に高い関心を持っていることを実感させられています。
明らかに、すでに日本は創薬、創医療機器の分野のトップランナーです。ですから、追いつけ追い越せの時代は過ぎているのです。これからはトップランナーの自覚とともに、責任と使命を果たしていく覚悟が求められているのだと思います」

1990年代のバブル崩壊以降、私たちは「世界一、あるいは世界有数」を誇っていた日本のあれやこれやが、実はすでに凋落し、競争力をなくしていたという悲しい事実をいくつも見せられてきた。そんな中、劣ると信じ込んでいた新薬創造の分野が、世界トップに躍り出ていたこと、あるいは躍り出ようとしている時期であると知って光明を見る思いの読者は少なくないはずだ。

競争の激しい分野だけに、明日にはまたトップから滑り落ち、滑り落ちたところから再びトップへと目まぐるしい推移もあるだろうが、規制当局の要職にこの人物がいる限り、日本の創薬、創医療機器は、何度でもトップに返り咲くことだろう。

参考文献
●PMDA・HP公開文書「合理的な医療を目指して」

愛車「ダットサン・ブルーバード」

1963年8月、上野文化会館にて

2017年現在

愛車(現在は、セカンドカー)のダットサン・ブルーバードP312 Dx(1963年4月製)。
写真左は、購入まもない1963年8月、上野文化会館にて。一度も手放さず、コツコツと修復して手塩にかけてきた愛車である(専門家の手によるレストアは、一度行っている)。もちろん、ちゃんと動く。気が向けば、公道を走らせている。

「日常のメンテナンスは、欠かしません。ものを大事にすることは当然ですし、壊れたものを直すことが大好きなんです」

独立行政法人医薬品医療機器総合機構(PMDA)理事長
近藤 達也先生

1968年9月 東京大学医学部医学科卒業
1969年1月 東京大学 脳神経外科入局
1972年8月 国立東京第一病院 脳神経外科
1974年2月 東京大学 脳神経外科助手
1977年3月 マックス・プランク研究所(脳研究所/西ドイツ)留学
1978年3月 国立病院医療センター 脳神経外科
1989年7月     〃      脳神経外科医長
1993年10月 国立国際医療センター 手術部長
2000年2月     〃      第二専門外来部長
2003年4月     〃      病院長
2008年4月 独立行政法人医薬品医療機器総合機構(PMDA)理事長

(2017年7月取材)