精神科臨床の現場では、患者やその家族から感謝されるよりも、怒りや不満をぶつけられることのほうが多い。「何も分かっていない」と陰で言われることや、「コミュニケーションが下手だ」「真心が足りない」と批判を受けることも珍しくない。
外科医が手術後に患者や家族から感謝されたり、救急医が現場で看護師から頼りにされたりする“分かりやすい”やりがいは、精神科医療の現場ではなかなか得られない。
患者は状態が良くなってくると、そのまま社会復帰に集中し、感謝を精神科医に伝える余裕がないまま去っていくことが多い。もちろん、それは医療者側にとって決して悪いことではないが、結果的にやりがいとなる目に見える形での感謝は届きにくい。
さらに、患者から感謝の言葉があった場合でも、精神科医は「陽性転移(治療者に対してポジティブな感情を向けること)」や、後に起こりうる「陰性転移(治療者に対してネガティブな感情を向けること)」を警戒する必要がある。患者が無意識に治療者を理想化したり、逆に落胆して強い批判に転じたりする可能性を含んでいるからだ。
そして、とりわけ診察室という閉ざされた空間では、恋愛感情を抱かれやすい。そのため、感謝と性愛が混在する事態に対して慎重にならざるを得ない。
恋愛感情や性の問題について、僕は幼少期の頃から経験してきた。幼い頃から大人の女性から好意を寄せられたり、性の危険を感じる出来事があったりしたのだ。幸運にも大きなトラブルは回避してきた。
こういった経験は女性はもっと頻繁にあるだろう。そして、性の危険には、もっと深刻にさらされていることだろう。それに比べれば、僕の経験してきた不安や困惑は小さなものなのかもしれない。
2月になると、診察室に女性患者が入って来るたびに、「バレンタインのチョコレートを渡されはしないか」「もしチョコレートを渡されたらどう対応する?」と警戒していた。年齢を重ねておじさんになったので構える必要性は薄れたが、若い頃には恋愛や性愛の感情が診察に入り込むリスクを、もっと強く意識していた。
こうして「感謝」と「性愛」が混ざり合うのを幾度も目撃していると、正の感情すら「本当に信用できるのだろうか?」と感じてしまうことがある。感謝や慈愛、仁といった崇高な感情も、突き詰めれば言語や文化によって学習されたものでしかない。
逆に、嫉妬や憎しみ、恐怖や不安といった負の感情も、100%の悪ではないのだろう。例えば「死にたい」という絶望に包まれているときでさえ、その中には「助けてほしい」「救ってほしい」という希望や懇願も含まれている。人間の感情は、そんな複雑な二面性を常に抱えている。
僕たちは、人間を「善人」と「悪人」に分けたがる。しかし実際には、一人の人間の中に善の要素も悪の要素も同居している。
同じように、感謝と非難の二つを明確に切り離せるわけではなく、感謝の言葉の中に批判が含まれ、批判の中に感謝の気持ちが混じることもあるだろう。
僕たちは感情の正負や善悪のどちらか一面だけでは割り切れない存在だ。精神科臨床の現場にいると、その事実を日々思い知らされる。だからこそ 「人間の複雑さ」そのものを受け入れる姿勢が重要なのだと思う。
称賛されにくく、批判にさらされやすい環境の中でこそ、人間の真の姿や繊細な感情の動きが浮き彫りになる。精神科医もまた、強いところと弱いところを抱えながら模索しているのだ。何が正しくて何が悪いのか、どこまで信頼してよいのか――。
益田裕介(ますだ・ゆうすけ)
1984年生まれ。岡山らへん出身。精神保健指定医、精神科専門医・指導医。防衛医科大学校卒業、陸上自衛隊勤務後、民間病院を経て、2018年4月より東京都内の早稲田大学横で個人開業医をしている。19年12月からYouTubeもやっている変な人。酒が好きすぎて、心身を壊しそうだったので20年6月から断酒中。そのことを自慢に思っている。週6~7勤務も疲れてきたので、勤務日を減らしたいけれど、貧乏性なので減らせない。こんなに頑張って働いているお父さんなのに、8歳になる娘からは「変態おじさん」なるあだ名を拝命しました。
月曜のマミンカ
神奈川県川崎市在住のイラストレーター、絵本作家、グラフィックデザイナー。 2022年、絵本「カモンダメダメモンスター」を出版後、こどもと楽しめるワークショップを不定期で開催。 4匹の保護猫とヒーロー好きな息子、自由奔放な娘の子育てに奮闘中。
HP: https://mondaymom.official.ec/
Instagram: https://www.instagram.com/mondaymaminka/