09

波乱の時期を「ドリフト」し、
「偶然の幸福」をつかむ

岡崎 寛子氏

家庭医療学開発センター家庭医療学レジデンシー・東京シニアレジデント

PROFILE
岡崎寛子(家庭医療学開発センター家庭医療学レジデンシー・東京シニアレジデント)
2004年、聖マリアンナ医科大学卒業。同大学病院での初期研修を修了後、同大学大学院(放射線科)へ進学。博士号・放射線科専門医資格を取得後、結婚・出産を経て、2013年よりフリーランスの放射線科医として活動。2014年、家庭医療学開発センターで後期研修を始めると同時に、聖マリアンナ医科大学附属研究所ブレスト&イメージング先端医療センター附属クリニックの非常勤医として週半日勤務。日本医学放射線学会専門医、日本乳癌学会認定医、日本乳がん検診制度管理中央機構認定マンモグラフィ読影医、ピンクリボンアドバイザー。

「王道」を歩むつもりだったけれど

もともと私は、高校生の途中まではクリエイティブな仕事に興味を持っていました。特に、テレビ局のプロデューサーだった父の影響もあり、価値あるものを「プロデュースする」ことに魅力を感じていました。ところが、仲の良かった友人の1人が女性特有の病気になり、高校を中退してしまったことから、「友人の悩み、女性の悩みを聞ける職業に就きたい」と医療の世界へ目が向くようになりました。
同時期に、私自身が虫垂炎になり、看護師の母が勤める病院に入院したことも影響しました。もとは専業主婦だった母は、私が小学校3年生のときに看護学校に通い始めて看護師になった努力家です。母が病院でいきいきと働く姿を目の当たりにして、「医療に携わりたい」という気持ちが高まったのを覚えています。

聖マリアンナ医科大学に進学してからは、日々の勉強に加え、部活動の空手にも力を入れていました。当時の医学部では、毎日みっちりと講義があり、さらに部活も頑張るのが普通のことだったように思います。私は空手自体はとても下手でしたが、部活動を通して礼儀作法や体力、そして苦楽を共にした仲間といった、今でも自分にとって大切なものを得ることができました。「継続は力なり」ということも、ここで体感したように思います。

医師の家系でもなかったので、卒業後は一般的な臨床医として働くイメージを漠然と描いていました。ただ、家庭医療に興味のある友人が多かったため、勉強会に参加するなどして自然と知識が積み上がっていきました。旅行を兼ねて、ハワイの家庭医療がどのようなものか、1人で見に行ったこともあります。家庭医療の最先端を目の当たりにして、「患者さんを全人的に診る」ことができる素晴らしい医療のあり方だと思いました。ただ、正直なところ、「日本で定着するのはずっと先の話だな」と感じてしまったことも事実です。そういう思いもあり、医局に所属して大学病院で働くという、いわば「王道」を選択して初期研修に臨みました。

初期研修先の聖マリアンナ医科大学病院では、最初の1年は臨床医を目指し、内科や外科のローテートをしていました。実際に臨床をやり始めてみると、患者さんに情が入りすぎてしまう傾向もあって、なかなかオン/オフの切り替えがうまくいかず、心休まる瞬間がほとんどない状態でした。

医師として、私ができることはいったい何なのか…。悩んだ末、出した答えが「縁の下の力持ち」の医師になること。このとき私を導いてくれたのが、学生時代からいつも優しくしてくださった放射線科の恩師でした。いずれは女性医療を専門にしたいと打ち明けたところ、「それなら放射線科でもできる!」とアドバイスいただいたのです。そこで、初期研修後は大学院に進学し、乳がん診療(乳腺画像)の専門性を高めることにしました。

大学院では主に、乳腺画像の中でもマンモグラフィや乳腺エコーの勉強をしていました。ちょうど大学院が終わるぐらいの頃から、自分は乳腺画像の中でも「乳がん検診」に興味があることに気付きました。特に、若い世代で罹患率の高い乳がん検診の大切さをどのようにしたら世間に広められるかといったヘルスプロモーションや、女性の予防医療的なことに興味がわくようになっていったのです。

人生経験を経て「人と向き合う」家庭医療の道へ

大学院を卒業した年に結婚・出産した私は、育児休業を取りつつ大学病院の放射線科で働き続けていましが、徐々に考え方が変わっていきました。育児を経験したことで、もう一度「全人的に人を診る」ことに挑戦したいと思うようになったのです。子どもがいることでオン/オフの切り替えが必然となったこともあり、初期研修の頃よりは自信を持って現場に出られるだろうと考えました。通常とは違う進路の選び方かもしれませんが、「逆転の発想」をしてみたわけです。

ちょうどこの頃、東日本大震災が起こったことや、尊敬していた祖父が亡くなった影響も大きかったですね。祖父は銀行の会長まで務めた人でしたが、「どんなに地位や名誉があっても、人はいつか必ず死ぬのだ」という当たり前のことを、あらためて実感したのです。このことからも、やはり人の生や死と向き合っていく医療をもう一度勉強してみようと決意しました。「自分がどう生きるか、どれだけ人を幸せにできたかが大事だ」という祖父の言葉に背中を押された部分もあったと思います。全人的に人を診る勉強をしたい! もともと勉強していた乳がん検診のヘルスプロモーションについても見識を広げたい! こうしたわがままにこたえてくれるのが、大学時代からなじみのあった家庭医療だと思いました。

とはいえ、当時1歳だった息子を育てながら、唐突に転科するのは現実的に難しい。そこで、いったん大学病院を退職し、フリーランスの放射線科医として複数の医療機関で働きながら、「ワンクッション置く」時期をあえて設けることにしたのです。乳がん検診の仕事などを掛け持ちしながら、母親として子どもとしっかり向き合うと同時に、今後の進路を落ち着いて考える時間を作りました。

医師がフリーランスになると、フルタイム勤務に比べて時間的な自由度が高く、収入も遜色ないか、場合によっては増えることもあります。人生の一つの通過点としてフリーランスを選びましたが、その立場でずっと働いていこうとは考えていませんでした。

そして、息子が3歳になった頃、日本医療福祉生活協同組合連合会の家庭医療学開発センター(CFMD)を後期研修先として、あらためて家庭医療を学ぶことになりました。子どもがいながらにして再度の研修を始められたのは、夫の協力も大きかったと思い、感謝しています。

CFMDの研修は診療所基盤型のプログラムで、1年目は内科、2年目は緩和ケア・小児科・救急、3年目は診療所に勤務しながら学ぶシステムです。現在は後期研修の2年目に当たりますが、聖マリアンナ医科大学附属研究所ブレスト&イメージング先端医療センターでも非常勤の放射線科医として週に1度のペースで働かせていただいています。

CFMDのプログラムの魅力は、大学時代の友人が卒業生であったこともありますが、同じように子持ちで研修している女性医師が多いことでした。また、他科からの転向もウェルカムという雰囲気があることもよかったですね。

思いがけず「患者の立場」を経験して

新たな夢に向かって歩み始めたとき、思いがけないことに、自分自身が病気になるという経験もしました。幸い、命にかかわる病気ではなかったのですが、初めは「なぜ自分が……」という怒りやショック、悲しみに包まれました。でも、いわゆる受容のプロセスを患者の立場になって体験したことは、医師として大きな経験値となりました。

家庭医療におけるBPSモデル(biopsychosocial model)では、生物的、心理的、社会的という3つの視点から患者さんを診ることが重要だとされています。体が病気になったというだけでなく、それに伴って心が大きく揺れ動き、社会とのかかわり方も変わってしまうことがある。それを自分の身をもって実感したことで、患者さんを全人的に診ることの重要性を心から理解することができました。

私の主治医となってくださったのは、大学時代の先輩でした。もともと私にとってメンター的な存在でしたが、あらためて「医師と患者」という関係性でコミュニケーションする中で、「先輩のような医師になりたい」という大きな目標を得ることができました。

苦しい時期を乗り越えることができたのは、育児休暇など様々な休職経験を持つ医師のピアグループのメンバーたちの力もあります。彼女たちも、子育てや介護、あるいは自身の病気を経験して、「思い通りにいかない出来事」を乗り越えながら働き続けています。このピアグループの中で学んだ大切な考え方があります。

「自分の思い描くキャリアを構築するために、計画通り前進し続ける時期も大切。しかし、キャリア理論の一つとして、時の流れに身を任せる『ドリフト』という時期も重要だ。思い通りにならない時期があっても、状況に身を任せることで、思わぬセレンディピティ(偶然の幸福)をつかむことができるときもある」。

これを信じることで、私自身も予期せぬ出来事を乗り越え、思わぬセレンディピティを手に入れることができたようにも感じています。今は病気の治療を続けながら、CFMDの研修を続けさせていただいています。

今後は、乳がん検診の仕事をライフワークとしつつ、家庭医として患者さんを全人的に診ることができる医師を目指して、勉強を続けたいと思っています。また、自分の経験をもとに、女性医師が働きやすい環境作りのお手伝いなどにも携わることができたらうれしいですね。

家庭医は、患者・家族・医療者の間で共通のゴールを見出し、患者さんの生き方のプロデューサー的な役割を担います。そう考えると、高校生時代の夢が、思わぬかたちで実現していると言えるのかもしれませんね。

岡崎 寛子の来歴

高校生時代
友人の病気がきっかけで女性医療に携わりたいと考え、医師を志す。
初期研修・大学院時代
「縁の下の力持ち」として活躍できる医師を目指して、大学院へ進学。女性医療の一分野として乳がん診療(乳腺画像)を学ぶ。
ターニングポイント!
フリーランス時代
出産後、今後の人生を考えるため、フリーランスの放射線科医として働くことに。育児や祖父の死などを通して、人と向き合う家庭医療に携わる決意を固める。
後期研修時代~現在
家庭医療学開発センターでの研修中、自身が病気に。患者の立場に立ったことで、全人的に診ることの重要性を身をもって知る。
バックナンバー
13
薬学の徒として始まり、小児血液腫瘍の臨床へ

杉山 正仲(神奈川県立こども医療センター血液・再生医療科)

12
計り知れない回復力に魅せられ、小児集中治療の道へ

山田 香里(神奈川県立こども医療センター救急診療科)

11
「ラッパ吹き」のドクター、「精神と時の部屋」で修行中

稲垣 佳典(神奈川県立こども医療センター循環器内科)

10
「本当の問題」を探り出し、子どもも親も納得できる医療を

露﨑 悠(神奈川県立こども医療センター神経内科)

09
波乱の時期を「ドリフト」し、「偶然の幸福」をつかむ

岡崎 寛子(家庭医療学開発センター家庭医療学レジデンシー・東京シニアレジデント)

08
現場の医師と製薬との間にフラットな架け橋を

石井 聡(日本イーライリリー株式会社 研究開発 医学科学本部(糖尿病領域)・臨床開発医師/メディカルアドバイザー)

07
胸を張って「スポーツドクター」と名乗るために

岩本 航(江戸川病院スポーツ医学科・医長)

06
公衆衛生の視点から「世界を診る」

坂元晴香(ハーバード大学公衆衛生大学院、聖ルカ・ライフサイエンス研究所・研究員)

05
家庭医療へのターニングポントは「ありがとう」の一言だった

吉田 伸(飯塚病院総合診療科)

04
離島勤務の後でやって来る、最大のターニングポイント

三ツ橋 佑哉(三宅島・三宅村国保直営中央診療所・所長)

03
ダブルライセンスで、医療と法曹を「なめらかに」つなぐ

山崎 祥光(井上法律事務所)

02
精神科医として、産業医として、女性として……

石井 りな(フェミナス産業医事務所・代表/株式会社プロヘルス・代表取締役)

01
2度のターニングポイントを経て、生に向きあう緩和医療に辿り着いた

西智弘(川崎市立井田病院かわさき総合ケアセンター腫瘍内科/緩和ケア内科)

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